「サード・パーソン」と「『死』に対する責任」に就て。

最近「愛」に纏わる、非常に興味深くミステリアスな映画を観た。

その作品とは「サード・パーソン」…主演はリアム・ニーソンで、他に出演はオリヴィア・ワイルドエイドリアン・ブロディ、キム・ベイジンガー、ジェームズ・フランコ、そしてミラ・クニス。こう聞くと、何か単なるオールスター・キャストの映画の様に思われるかも知れないが、それぞれの俳優がそれぞれのフィルムで主演を演じて居る、と云った方が正確かも知れない。

然もこう書くと、今度はこの映画をオムニバス映画の様に捉えられるかも知れないが、オムニバスで有ってオム二バスでは無い所が、本作の大いなるミソなのだ。監督は2004年度のアカデミー作品賞を獲った「クラッシュ」のポール・ハギスで、「クラッシュ」の手法を或る意味踏襲した作品では有るが、その構造はより複雑に為って居る。

主演のリアム・ニーソンは、今回は狭い機内や街角での格闘シーンも皆無な、嘗てピューリッツァー賞を獲った悩める作家の役で、その渋い演技が光るが、今日のダイアリーのテーマは、この作品の物語の根底に流れる「娘の『死』」に関する責任問題で有る。

さて話は変わり、ヴィデオで尊厳死を予告していたアメリカ・オレゴン州のブリタニー・メイナードさんが、予告通り11月1日に医師の処方した薬を服用し亡くなった。

尊厳安楽死は、アメリカでは4つの州のみで合法と為って居て(オレゴン・ヴァーモント・ワシントン・モンタナ各州)、メイナードさんは尊厳死を実行する為にオレゴンに移住したとの事で、その決意の程が知られる。

11月1日に実行された彼女の自死は、世界に大きな衝撃を与えたので、ご存知の方も多いだろう…そして、このメイナードさんの一件と、上に記した「サード・パーソン」を観て知らず知らず考えて居たのが、「死刑」論だった。

それはどう云う事かと云うと、つまりは人の死の「責任」問題だ。

僕は、個人的には「死刑」は有って良いと思っているが、時折「第三者」に拠る「殺人」で有る処の死刑には違和感も持って居て、今の死刑制度では被害者が亡くなって居る場合、その人の人権は全て無視されるが故に、最も被害者に近い親族の気持ちを慮っての、誤解を恐れずに云えば社会的「復讐」的意味合いが強いと思う。

この事は今偶々読んで居る平野啓一郎氏の新著「生命の行方」(講談社)中の、森達也氏との対談「フィクションとノンフィクションは"死"をどう紡ぐか」でも触れられて居る様に、「人間社会に於いては、如何なる理由が有っても『殺人行為の容認』はしない」と云う法的大前提に反する訳で、「法」自体の自己矛盾を誘発するからだ。

では、問いたい。「死刑」に於ける「死の責任者」は一体誰か?それは社会か国家か、或いは陪審員か、はたまたその法案を通した議員かその議員を当選させた市民か?

そしてメイナードさんの尊厳死ローマ法王が非難した事で、宗教が絡んだ「死の責任者」問題はより複雑化する訳だが、「自死」或いは「尊厳死」の場合はどうだろう?尊厳死の場合はその死を選んだ本人だろうが、虐めや差別等の何らかの外圧が理由の場合は、その圧力を加えた者だろう。

が、此処で「サード・パーソン」に話を戻す。

余りネタバレしたく無いが、上に記した様に、この映画の最も大きなテーマは「娘の死の責任」問題で、父親がほんのすこしの間電話に出て居た間に、娘は家のプールで溺れ死んで仕舞うのだが、その娘の死の責任は、電話に出ると云う「罪の無い行為」の為に、娘から眼を離した自分に有ると悩む父親に有るのだろうか?

然し、その「電話」自体に何らかの言い逃れの出来ない「罪」が存在するとしたら、と云うのがこの作品のミソで…と云う事は、娘の事故を自分の所為にして自責の念に駆られて居る不幸な父親は、残念ながら無罪とは為り得ず、その電話の相手(「サード・パーソン」)もまた然り、なので有る。

云って置くが、僕の今日のダイアリーに、結論の様な物は無い。

「サード・パーソン」とメイナードさんの尊厳死、そして死刑制度(それと勿論戦争等を含めて)を考えた時、どんなに小さな存在でも、1人の人間の死に於いて(自分自身を含めて)、一体誰がどう責任を持つのかと云う事、或いは持たせるのかと云う事に関して、その直接・間接を問わず、我々はもう少し真剣に考えるべきだ、と僕は思う。

人の命は地球よりも重い…そしてその72億人中の誰でもこれだけは平等で、たった1つしか持ち併せて居ないのだから。