死者は「教師」で有る。

3月のオークション出品作品を探す為の、3日間に及ぶ関西出張をこなして来た。

今回の出張は分刻みのスケジュールの中、「三都物語」を当に地で行った訳だが、陶磁器、掛軸や屏風等の絵画、明治工芸や書、茶道具迄、何しろ観た物は多彩…「大物」も何点か決まって嬉しい出張と為ったが、その反面、悲しい旅でも有った。

それは今回の旅の途中で、2人の人間の「死」に向き合わざるを得なく為ってしまったからなのだが、その内の1人は、京都の古美術商K氏…K氏は、筆者が出張に出る数日前に45歳の若さで急に亡くなり、京都に入ったその晩、筆者が最初に向かった先が彼のお通夜の斎場と為ってしまった。

K氏とは仕事のみならず、京都、ニューヨーク、香港での夜をご一緒した事も有ったのだが、その豪快な呑みっ振りと陽気な性格を慕う人も多く、仕事の方も中堅古美術商としてバリバリやって居たK氏の急死は、当に痛恨の一語に尽きる。

そしてもう1人とは、大往生を遂げたクサマヨイの祖父、陶芸家三輪壽雪で有る。

壽雪お祖父さんは、明治43年に九代三輪雪堂の三男として生まれ、後に休和と為る10代休雪を長年助けて、伝統的な萩焼の技法を学んだ。兄の隠居後、1967年に11代休雪を襲名し、1983年には萩焼作家として人間国宝に認定されたが、兄弟での人間国宝認定は前例の無い事で有った。

その後2003年に、長男龍作に休雪を譲った後も「鬼萩」と呼ばれる豪快な作陶を続けた末、老衰で安らかに102歳の天寿を全うした訳だが、クサマヨイと結婚した後夏冬休みに毎回お会いする度に、その大きな声とユーモアに感動して居た事も、今となっては良い思い出と為ってしまった(拙ダイアリー:「センセーショナルな100歳」参照)。

長年住んでいた、趣の有る「不走庵」で最後のお別れをしたお祖父さんの顔は非常に安らかで、人生を全うした満足感に溢れて居る様に見えたが、しかしそのお顔は、今週45歳と102歳と云う、倍以上年の離れた2人の死に接した筆者に、再び強い感慨を起こさせた。

それは、この世で唯一「死」と云う物だけが、全ての人間に「平等に」訪れるのだが、しかしながら、その歳月の長短や死に方等は決して選べない、と云う事だ。

102歳で、老衰で亡くなったお祖父さんの周りには、当然ながらその年よりも年齢の若い人々が集まり、別れを惜しむ。しかし、45歳で急に亡くなったK氏のお通夜の親族席には、突然未亡人に為られたK夫人と未だ小さいお子さん、そしてK氏の親御さんも並び、彼等の人生生活の中心がポッカリ空いた様に見え、余りに不憫だった。

そしてそれが何を意味するかと云うと、当たり前かも知れないが、人の「死」は残された人の人生にこそ、大きな波紋や激しい変化を及ぼすと云う事で有る。

思い返せば筆者の今年一年は、1月の父の転倒に因る急死に始まり、壽雪のお祖父さんの死に終わると云う、親族の死に始まり、親族の死に終わった1年で有ったが、そんな「死」が残された人(筆者)の人生に与えた唯一最大の有益な効用とは、「死」に因って必然的に生まれ来る「新たな」生活や考え方、関係性を産み出した事では無かったか…。

そう考えると、誤解を恐れずに云えば、身近な人の死は「自分が変わる『チャンス』」とも云えるのでは無かろうか?

そんな不確かな疑問への答え、或いは手引は、最近読み始め今1/3程読み終わっている、平野啓一郎の新作小説「空白を満たしなさい」の中に在るのでは無いか、と期待している…何故なら死者こそは、正しく生者の「教師」なのだから。

人の「死」に就て考え続けた今年も、後残り2週間で有る。