一途な、余りにも一途な「激しい愛」:アルモドヴァルの新作。

クリスマス当日のNYの街は、イヴにも況して静かである。この日は基本的に、宗教上クリスマスに関わりの無い人種のみが働いているので、中華料理等を除けば「美味しいレストラン」を探すのも、至難の業である程だ。

その静かな街に出て、ペドロ・アルモドヴァル監督の新作「Broken Embraces(邦題:「抱擁のかけら」)を観に行った。上映開始時刻よりもかなり早く行った積りであったが、リンカーン・センターの映画館には何と驚く事に行列が出来ており、「クリスマス当日」のNYの街に如何に「レジャー」が少ないかを物語っていた。

余りに映画館が混んでいたので、妻と「この列を成す内の何人が『アルモドヴァル』とは何者か、況してやその芸術性を本当に解かっているのか!」等と怒りもしたのだが、この作品が本年度「ゴールデン・グローブ最優秀外国語映画賞」にノミネートされている事、はたまた我らが美しき「ペネロペ」様が、再びこの監督の作品に出演している事も有るので、単に「彼女目当て」の人も多かったのかも知れない・・・。まぁ、どうでも良い話だが。

さてこのスペイン人監督の作品には、幾つか共通する「必須条件」が有る。それは例えば主人公の「自動車」や「インテリア」に代表される「赤」、しつこく描かれる「ゲイ」、そして過剰な迄の「一途な激しい愛」に生き、そして敗れる余りにも「濃い」人間関係等である。そしてこのアルモドヴァルの「三種の神器」は、この新作にも当然の様に登場するのだが、これらはラテン系映像作家ならではとも云える知れないが、或る意味現代人間社会に於いて「希薄」に為りつつ有るモノの、象徴なのではなかろうか。

話は、嘗て映画監督をしていた高名なる「盲目」の脚本家が、訪ねて来たセクシーな女を盲人ならではのテクニックで口説き(笑)、SEXをするシーンから始まる。そしてこの日、1人の「過去」からの訪問者が脚本家の前に現れ、彼に「或る仕事」を脅迫的に依頼する。

これが全編の発端と為り、徐々に過去から現在にかけての「複雑な」そして「濃い」人間・愛憎関係が露になって行く。まるでミステリーを観ている様な「謎解き」は、監督お得意の「劇中劇」や、過去と現在を交互にフラッシュバックさせる技法を用いて少しずつ行われ、観客を決して退屈させない。

出演者は所謂「いつものメンバー」であるが、しかし何と云っても脚本家の嘗ての愛人を演じるペネロペ・クルスが素晴しい。この女優が出始めた頃は、唯の「ラテン系カワイコちゃん女優」と思っていたが、そんな第一印象も何のその、前回彼女を銀幕で観たウディ・アレンの「Vicky Cristina Barcelona」(アカデミー助演女優賞受賞)でも、「スペイン女」の本性見たりと思う程の絶妙の演技で、「世界的女優」の魅力と才能を余す所無く発揮していた。優ちゃん程では無いが、もう大好きである(笑)。

今回の彼女の演技にも、自分の人生が思い通りに行かず破綻して行く上で、イライラし堕ちて行く姿、そして巡り会った「一途な愛」を完遂しようとする女の「強さ」と「可愛さ」を、観客がこれは「地」では無いか、と想う程の迫真さがある。何か往年のソフィア・ローレンを観る様で、これから年を取っても、美しく、強く、そして個性的な女優に成って行く事は疑問の余地が無いだろう。

映画は、脚本家の息子が、嘗てバラバラに引き千切られた、父と愛人の「写真」を復元し始める所で終わる。最期に脚本家が編集を完成する、彼が監督(眼が見えていた)時代に「完成できなかった『映画』」、主人公とその周辺の人々の「完遂できなかった様々な形の『愛』」、そして細切れの『写真』」、これら全てが息子に拠って、完璧では無いにしても或る意味「収束」へと向かう、云ってみれば「希望」と「安堵」の結末は、これ迄のアルモドヴァル作品からすると少々大人しい気もするが、ある種の爽快感を伴う。この「完璧」では無いが「収束」に向かう、と云った「人生に於ける希望」も、この作家の作品に共通するテーマでは無いだろうか。アルモドヴァルここに有り、という思いである。

この新作を観た翌日の土曜日、一日中降りしきる雨に外出の意欲も失せ、結局家で同監督の名作「Bad Education」をDVDで観た。詳しい作品内容は省略するが、この映画の主人公もやはり「赤い車」に乗り、登場人物全ての苦しい程の「一途な愛」が確りと描かれていた・・・素晴しい傑作であった。

「赤」を主とする原色の美、素晴しい脚本と俳優達を擁する「Broken Embraces」…アルモドヴァルの真骨頂である。