大島渚の「儀式」@ジャパン・ソサエティ。

気が付けばもう4月…今年も1/4が終わって仕舞った。で、唐突だが、最近気に為る女優が居る。

その美しくも「個性的な」女優の名は、エリザベス・デビッキ…この名前を聞いて直ぐに彼女の顔を思い出せる人が居たら、その人は大した映画好きだと思うが、それは何故なら彼女が出演した映画が、短編映画を入れても未だ3本だけだからだ。

謎謎の様で何だが、上に「個性的」と書いたのは実は彼女の「身長」の事、と云うのが大ヒント。そして資料にも彼女の身長はハッキリとは書かれておらず、「180-190cm.」と有るだけ。そして「これだけ背の高い美人女優が、一体何処に居るのか?」と聞かれれば、ディカプリオ主演の映画「The Great Gatsby」の中と答えよう!

この作品中、デイジーの親友で有名美人ゴルファーの「ジョーダン・ベイカー」役を演じた女優と聞けば、背が高くハイ・ファッションに身を包んだ彼女を覚えて居る方も多いに違い無い。

そして、劇中の1920-30年代の濃いメイクを取り去ったエリザベスは、本当に美しく透明感有るパリ生まれの女優で、今年24歳(8月生まれらしいから、獅子座かも知れない…→http://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Debicki)。身長が高過ぎる為、女優としてのこれからは未知数だが、筆者とは背の高さも丁度良いので是非頑張って貰いたい(意味が判らん:笑)。

と、興奮を抑えつつ、此処からが本題。此処ニューヨークもやっと寒さが和らいで来たが、先週の土曜は大雨だった。そんな雨の中、夕方から座骨神経痛も中々治らない足を引き摺って向かったのは、フィリップスとクリスティーズの「Photograph」セールの下見会。

両オークションハウスでは、困った事に気に入った作品を見つけて仕舞い、「タックス・リターン」もソロソロ来る事も手伝って、ビッドへの欲求が強まり却って困る。が、買おうかどうかを悩んで居ても、マヨンセの顔が浮かんだ途端にその可能性を即座に否定し始めるワタクシ…あぁ、我等「地獄夫婦」とは何と良く出来たカップルなのだろう!?(笑)

そして下見会後はジャパン・ソサエティに向かい、フィルム・メイトのアーティストI氏と合流して、「ドナルド・リッチー・トリビュート・シリーズ」の内の、1971年度大島渚監督作品「儀式」を観る。

筆者がこの「儀式」を前に一度見たのは、多分大学に入った頃。その時は何が何だか訳の判らない話だったと云う記憶しか無いが、大人に為った今観た後でも、大島のその「主張」を正確に捉えたとは正直云い難い。

が、今回この「儀式」を観終わり辛うじて分かった事は、この映画で大島が描きたかった最大事は、若しかしたら「真の『独立』の難しさ」と云う事では無かったかと云う事だ。

この作品が製作された1971年は、三島由紀夫自害の翌年で、70年安保真っ盛り。そしてこの「儀式」には「戦前」と「戦後」の新旧日本が未だ激しく混在し、家長制や父権、男尊女卑やフリー・セックス、満州引き揚げや都市集中、共産主義公職追放解除等の所謂日本的な「旧体制」が鏤められて居て、云ってみれば「大島的『戦後総決算』映画」と云えるのではと思う。

そしてそれは、河原崎健三演じる暗い主人公が、旧家・祖父・満州引き揚げ時に生き埋めにした赤ん坊の弟・叔母への初恋・従兄弟への嫉妬・兄妹かも知れない娘への恋慕・高校野球と云った「過去」や「旧体制」から、決して逃れられず絶対的に「独立」出来ない様は、大島に取って当時の日本国その物で有ったに違いない。

然し筆者は今回この「儀式」を観直して、本作を何故か好きに為って仕舞った。

その大きな理由の1つは、全編を通して根底に流れる「滑稽さ」だ。それは例えば、本作に数々登場する旧態依然とした日本的「儀式」を、そもそも「儀式」なる物が持つ「喜劇性」を更に誇張して表現居る処で、それは政財界の重鎮を招いた上で、執り行われる盛大な「花嫁不在」の結婚式のシーンや、その後の布団相手の「初夜」、自分の名で出す死亡電報、劇中何回も登場する葬式シーンでの極めて不適切な会話や行為に、これでもかと執拗に表現される。

そしてこう云った滑稽さは、結婚式で唄われる小唄(小唄の中で「阿部定」に関する歌詞が唄われる!)にも見られるが、この本作全編を通しての大島の執拗なアタックは、彼の「旧癖」に対するシニカルで侮蔑的な想いを、観る者に共有させる事に成功して居る。

その他、本作での武満徹の音楽も相変わらず素晴らしいし、俳優陣も監督夫人小山明子の冷酷な美しさや、賀来敦子の得も云われぬ妖艶さ(この人は映画出演が3作しか無いらしいが、色気が堪らない)、中村敦夫の色男振りや佐藤慶の「犬神佐兵衛」的存在感(これもかなり滑稽だ!)も誠に捨て難い。

さて大島渚と云う監督の評価は、何方かと云うと海外の方が高いのでは無かろうか?

それは、自分は大学時代に少し映画を勉強して居たからこそ、大島がゴダールを始めとする「ヌーヴェル・ヴァーグ」の世界に於ける1人として知って居たが、筆者の世代の多くが大島監督の姿を初めて見たのが「朝まで生テレビ」だったから、と云うのも理由の1つに違いない。

あのテレビでの「タレント活動」で見失われた大島の映画監督としての業績は、例えば「映画史」ゴダールに取り上げられた、4人の日本人監督の内の1人(後の3人は溝口健二小津安二郎勅使河原宏)に為った事や、アンゲロプロスやベルトリッチ、アルモドヴァル等の世界の名監督達に敬愛されて居る事実、カンヌ映画祭監督賞等の受賞歴にも垣間見えるが、それも含めて大島作品は見直されるべき時に来ていると思う。

そして今、大島作品とこの「儀式」を見直す事は、それと同時に来年「70年」を迎える我が国の「戦後」を総括する事に通じるに違いない。

何故なら「儀式」の制作から40年以上たった今でも、旧弊な「儀式」は日本の政治や経済の至る場面でも、滅びる処か未だのさばって居るのだから。