雪の日の「詩」。

オフィスの目の前の「ロックフェラー・ツリー」も撤去され、正月気分も漸く無くなったが、ニューヨークの厳しい冬は、これからが本番である。

今日は朝から小雪が舞い、夕方から明日に掛けて大雪の予報が出ている。こんな金曜の午後は、オフィスに居ても仕事のヤル気が全く起きない・・・じゃあ、いつもは有るのかと聞かれても困るのだが(笑)。

さて筆者は、「詩」と云うモノに全く弱い。少年から青年時代に掛けて、有名な詩集を読んだりもしたのだが、性格的に余り合わなかったのであろう。がしかし、高校時代に読んだ或る一編の「詩」だけは、実は今でも深く、深く心に刻まれていていて、大人になってから読み返したりしても、最初に読んだ時に慟哭した想い出が、まざまざと蘇ってくる程である。

しかし「詩」というモノは、諳んじられる位に味読しても、再び本(活字)で読むと感動を新たにするのは何故だろう・・・文節や段落の関係も有るのだろうが。ここが「詩」と云う芸術の、面白い所かも知れない。

その一編の「詩」は、「雪の日」に必ず想い出す作品なので、長くなるが此処に記す事にする。


I.
               幼年時

           私の上に降る雪は
           真綿のやうでありました


               少年時

           私の上に降る雪は
           霙(みぞれ)のやうでありました


              十七−十九

           私の上に降る雪は
           霰(あられ)のやうに散りました


              二十−二十二

           私の上に降る雪は
           雹(ひょう)であるかと思はれた


               二十三
           私の上に降る雪は
           ひどい吹雪とみえました


               二十四
           私の上に降る雪は
           いとしめやかになりました・・・・・


II.
           私の上に降る雪は
           花びらのやうに降ってきます
           薪の燃える音もして
           凍るみ空の黝(くろ)む頃


           私の上に降る雪は
           いとなよびかになつかしく
           手を差伸べて降りました


           私の上に降る雪は
           熱い額に落ちもくる
           涙のやうでありました


           私に上に降る雪に
           いとねんごろに感謝して、神様に
           長生きしたいと祈りました


           私の上に降る雪は
           いと貞潔でありました


中原中也 「生ひ立ちの歌」 (岩波文庫中原中也詩集」大岡昇平編)より 


しかし、この詩の「I」と「II」の間に有る、大きな違いは何だろう・・・。明らかに作者は「I」と「II」の間に、「愛」とか「恋人」とか云うモノを「発見」しているのではないか。

筆者は今の仕事を始めてから、青山二郎、白州正子や野々上慶一等の著作に因って、中也と長谷川泰子、そして小林秀雄の三角関係を知ったのだが、それ以来この詩の「II」で書かれる「雪」とは実は「泰子」の事で、中也にとっての究極、そして永遠の「聖母」だったのでは、と思い続けている。30歳で逝った中也のこの詩を、筆者は青年時代、単純に自分に投影していたのだろう。


私の上に降る雪は 万葉の時を超へながら いとやわらかに降っています   孫一