最近私を「憂鬱」にさせた、3つの事柄とその対処方。

その3つとは、以下の通り。

憂鬱1.「知能の高低差」:映画「The Cove」

和歌山県太地町での「海豚虐殺」の実態を描いた、「反捕鯨団体」に拠るドキュメント映画をDVDで観た。アメリカでは、この作品のTV・コマーシャルをやる程感心が高く、このDVDを貸してくれたのも、アメリカ人の友人である。

何とも壮絶な映像で、憂鬱に為った理由は「海豚が毎年2万頭以上、太地町で殺されている」「その海豚肉は、高濃度水銀で汚染されているにも関わらず、嘗ては学校給食に出され、スーパーで売られている」という事を知ったからだ。

さて何の意味も無く虐殺したり、濃度の濃い水銀に汚染された「海豚肉」を売ったりしている所は、これは許せない。が、「海豚」を捕る事自体は、はっきり云って悪いとは思わない筆者は異常だろうか・・・。「シー・シェパード」や「愛護団体」に怒られそうだが、個人的には「知能の高低」に因って食べて良い、悪いを決めるのは間違っていると考える。「牛豚鶏魚」からすれば、何故「鯨海豚」だけが助けられるのか、不可解ではないだろうか。

これも異論反論が多々有ると思うが、個人的には「海豚は知性・知能が高い」と云う理由で「海豚虐殺」の映画制作をしている方々には、あれだけの予算と労力があるのならば、「海豚」より余程「知性・知能の高い」人間の生死が懸かっている「紛争地帯」や「貧困地帯」にお金を注ぎ込んだ方が「人道的」では、と云いたい。個人的見解で有るが、筆者に取っての「命」の重さは、「人間」の方が遥かに重いからである。

しかし、何とも暗い映画であった・・・。


憂鬱2.「日本語が亡びるとき」:水村美苗 著

友人から頂戴した、上記評論を読了した。正直日本語の、そして日本文学のレベルの低下は、この21世紀になった今としては、到底否めない状況であろう。「美しき」日本語は万葉代から脈々と続いて来たが、時代を経るごとに「美しき言の葉」は淘汰され、仰る通り「亡びつつ」ある。例えば「月も雲間のなきは嫌にて候」とか、「しず心無く花の散るらむ」と云った「美しき日本語」の喪失は、その淘汰を止める事は不可能であったと思う。個人的意見で有るが、「日本語」を守るには「近代文学」も大事だが、もしかしたら「古典」の勉強が重要且つ、必要かも知れない。

そしてもう一点、「英語との共存」は国際社会に於いて当然最重要課題で有るが、日本人に今最も必要なのは、やはり正しく美しい「日本語」を徹底的に学ぶ事・・・「英語」は「日本語」の後で良い・・・と考える。「日本語」が出来ない「ネイティヴ日本人」に、まともな「英語」は話せないからだ。

日本で生まれ育ち、大学受験もフランス語であった為「英語」の授業は高1で止め(当然「でる単」や「英検」等見た事も無い)、現在勤務している英国企業に入ってから「英語」を猛勉強し、今住んでいるNYでは仕事・生活の全てを英語でしている、筆者自身の経験から「確か」である。

この本を読んで一点面白かったのは、この著者の「文章」が非常に「翻訳的」な文章だと思った事だ。これは、著者がアメリカの大学で勉強されたからかも知れない(外国での論文執筆経験者に、こう云う文体の人が多いと思う)。

「美しき」日本語が亡びるのは、余りにも切なく、憂鬱である・・・。


憂鬱3.「聞けなかった詩の朗読」:パティ・スミス

昨日、3月のオークション・カタログ制作中のこの忙しい時にも関わらず、6時前にオフィスを出て向かったのは、ユニオン・スクエアに在る大型書店「Barnes & Noble」。何故なら昨晩7時より、あの「パンクの女王」兼「詩人」パティ・スミスが詩の朗読をすると云うイベントが有ったからだ。

このイベントはJanet Maslinに拠る著作「Just Kids」の出版記念イベントで、この本では、「ルーム・メイト、ソウル・メイト、友人、恋人、そしてミューズ」と云う関係であった、パティとAIDSの為早逝した写真家ロバート・メイプルソープが、ブルックリンのアパートで同棲していた「時代」が描かれる。

パティ本人に拠る「朗読」と聞けば、見逃す訳には行かない!と云う事で、7時からにも係らず、頑張って6時に行ったのに、もう既に超満員でかなり後ろの方の立見席しか無く、疲労の為1時間も立って待つ事もできず、挫折して帰って来てしまった・・・誠に残念である。


対処:「憂鬱3」は致し方無い・・・またの機会を待つのみである(涙)。が、「憂鬱1」と「2」は考えさせられる事も多いが、対処できる未来も有る・・・頑張ろう。