「オークション・カタログ」は、永遠に不滅です(と思う…)!

寒さは緩んでいる今日此の頃だが、来月頭に校了すべきオークションのカタログ制作が、佳境に入っている・・・もう頭がはちきれそうである・・・。

そんな中、古い英国人の友人と昼食を取る為に5番街を歩いていたら、セント・パトリック教会の入り口付近で、オペラの様な歌声が聴こえる。覗いてみるとオペラ・シンガーがピアノを伴奏にアリアを歌っていた。どうもローマへの観光客招致の為のイベントらしい・・・街角にピアノを持ってきてオペラを唄わせる、如何にも「ニューヨーク」らしい光景であった。

さて昨今老舗ファッション誌が廃刊になったり、本や雑誌の売り上げが落ちてきたりしている一方、出版業界では「電子書籍化」が進んでいる様である。オークション・カタログと雖も、この「紙印刷媒体」を重要なマーケティング・ツールの一つとして使っている我々としても見過ごせない事態な訳だが、この「電子書籍化」が進むと一体どうなるか・・・。「オークション・カタログ」も、葬られてしまうのだろうか?

以前或る小説家の方から伺ったのだが、「文学」と云うアートは他のジャンルのアートと大きく異なる箇所が2つ有る。先ず、本を買って読むのに丸一日、或いは数日、時に因っては数ヶ月掛かる・・・要は絵画の様に「一瞬」にして、また映画や演劇の様に「数時間」でそのクオリティの「判断」ができないアートである。そしてもう一点は、何千何万部、「流行作家M.H.」の作品ともなれば、何百万部単位の「エディション」が印刷される、と云う事だ。

その「文学」の代表選手である「小説」は、小説家に拠って創造された後、活字化され、印刷され、本屋に並び、読者が本屋でその本を手に取り、装丁を見たり「帯」の推薦者の言葉や粗筋を読んだり、中身を一寸立ち読みしたりして、「面白そうだな・・・」と思い購入する、と云った経路を踏んで、最終的に読者の「本棚」に並んでいた筈だが、「電子書籍化」が進めば、そう云った流通も無くなるであろうし、「本棚」等と云う物も存在しなくなるであろう、との事だった。

その方と話している時に、ふと「もし『新作小説』が、そのアーティスト(作家)自身の作に拠る、もしくはディレクションに拠る『オリジナル豪華装丁』で、『版画』の様に極めて少数のエディションで販売されたらどうなるだろうか?」と云う話をしたのだが、実はこれは「CDとレコード」の話と似ている。

それは、嘗てレコード時代には、アーティストが例えば「A面」と「B面」の曲の並べ方を考えたり、ジャケットの写真やデザイン(例えば「見開き」や「蛇腹」になっていたりした)、ライナー・ノーツに凝ったりして、レコード一枚取っても其処にはアーティストの「総合芸術的感性」が篭った、「音楽」のみならぬ「アート」が有ったのである。

そう云った「総合芸術感」は、CD時代の到来に因って極端に縮小され、ダウンロード時代の今に至っては、皆無と云っては言い過ぎであろうか。最近になって、そういう意味で「レコード復活」の狼煙を上げるアーティストや購買層も出て来ている様で有るし、何も「音楽は聞ければ良い」と云う人だけでもない様だ。

本題に戻る。では「オークション・カタログ」はどうか?

勿論当社カタログも、今ではウェッブ・サイトで「E-CATALOGUE」として閲覧できる・・・が、印刷された「重い」カタログは、何故か無くならないのである。その理由はと云うと、作家島田雅彦氏が自身の「TWITTER」で「書物はフェティッシュな物だから、『豪華愛蔵本』などは残る」と、いみじくも呟かれていた様に(最近やっと、TWITTERに登録していなくとも、人の「TWITTER」を覗き見る事が出来る、という事を知った:笑)、オークション・カタログも「天井まで届く本棚から『お目当てのカタログ』を探し出し、徐に取り出し、古の『紙の香り』を嗅ぎながら、『思い出』と共にページを捲る」と云った用途で、残る可能性が有るのである。

この21世紀の、しかも「E-CATALOGUE」を「無料閲覧」できる時代に、一冊$50も$80もする重ーいカタログがちゃんと売れ、例えば当社パリ・オフィスで開催された「イヴ・サン=ローラン・コレクション」のカタログ等は、在庫は底を突き今ではプレミアが付いている程である。

勿論「小説」等では、こう簡単に行かない事は自明であるが、元来「オークションが終わったら、用済み」の運命であったこの「オークション(美術品)・カタログ」の「残存」例は、少しは「『紙』媒体の将来」の参考に為るや否や・・・。