「疲労倍増」なアート。

我等がキャサリンが将来の英国王を産み、ニューヨークのダウ平均株価が再び史上最高値を付けた中、日本では参院選が終わり、「案の定」最悪の結果に終わった。

27議席減らした民主、共産党にも及ばない維新は何とも情けないが、最悪なのは何も自民が大勝した事だけでは無く、史上3番目に低かった投票率(52.61%)で、国民に選挙・政治に関心を持たせられない自民党政権の責任は重大で有る…2人に1人しか投票しない国政選挙等、小平市なら開票すらしないだろう(笑)。

そして此方は此方で、酷暑のニューヨークで多忙、時差ボケと夏バテで最悪な体調の中、カタログ作業が続く…それが理由なのかも知れないが、上記を含めて、最近「イラッ」としたり「ガックリ」したりする事が多い。

先ずは敬愛して居たアーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチが、Jay-Zと何やら演ってるのをヴィデオで観てしまった事だ。確かに1人1人は好きなアーティストなのだが、しかしアブラモヴィッチのアートの美しさは、例えば「The Great Wall Walk」や「Rhythm 0」の様な、孤高且つ崇高な、誰にも出来ないパフォーマンスに有った訳で、今回のJay-Zとの共演の様に余りに商業的に為って仕舞っては、もうガックリするしか無い。

今回のアブラモヴィッチの件は、尖ったアーティストが「メジャー」或いは「ポピュラー」に為る事に因って、却ってダサく為って仕舞うと云う事と、如何に秀でたアーティスト同士が共演しても、才能の「色」の違いが有る場合には、その良さがブチ壊しに為って仕舞う(これこそが、筆者が安直な「コラボ」を何時も危惧する所以だ)と云う悲しい例だと思うが、実は最近もう1つそう云った「例」を経験した。

それは先週末、クサマヨイと友人の現代美術家インゴ、舞台脚本家のジョンと連れ立って観に行った、リンカーンセンター・フェスティヴァル参加の一幕物オペラ、「Matsukaze」で有る。

世阿弥作の能「松風」を元にオペラ化された本舞台は、作曲細川俊夫、演出はChen Shi-Zhengに拠る。ステージには、巨大なヴィニール製らしき「松」が上から降りて来て吊るされ、頭を剃らずに禿頭の鬘を被った(こう云う処も、余りに残念だ)西洋人の太った「諸国一見の僧」が出て来るが、謡を模した低音一本調子で歌い始めると、既にガッカリ。

話が進み、愈々韓国系女優が演じる松風と村雨の姉妹が登場するが、この2人、申し訳無いが映画「リング」の「貞子」が双子で出て来た様にしか見えず、舞台はホラー映画の様相を呈し始めた…にも関わらず、終いには何と「塩屋」も炎上してしまい、「タルコフスキー(「サクリファイス」)か?」と思わず苦笑して仕舞った程で、一寸もうウンザリ。

能の「松風」を何度も観て居るからかも知れないが、「松風」のストーリーは一見如何にも分かり易く、外国人好みの脚本をリアリズムで描きたく為るのは理解ら無くは無いが、いやはや「やっぱり、こうなってしまうのか!」と云う典型的な例で有った。

能「松風」は、確かに強い恋慕の物語で有る。松風は行平を想いさめざめ泣いた後、その形見の烏帽子と狩衣を慈しんでそれを纏い、松を行平と思っての中の舞、破の舞へと至る訳だが、徐々に松風の感情が高ぶるにも関わらず、その根底には最後迄「しっとりとした」緊張感が無ければならない。

そして今回のこの「Matsukaze」では、姉妹からの強烈で一方的な行平への恋慕は見えるが、行平がこの姉妹を寵愛した「過去」が全く感じられ無いし、更なる筆者の最大の疑問は、もしこの様なリアリズムで「松風」を描きたいので有れば、何故舞台を近現代に設定しないのか?と云う事だ。また、細川俊夫の音楽も現代音楽としては悪くないが、「原本」の舞台設定とは似わなく、元々世阿弥と細川の音楽の「色」も違う事を考えると、残念な結果で有る。

こう考えると、能を表面的だけで無く、深く掘り下げて自分の芸術に組み込む、ピーター・ブルックの才能とセンスの良さに改めて感嘆する…そう、「焼き直し」と「コラボ」には、真のセンスの良さが必要とされるのだ。

最近、疲労を倍増させるアートの存在を忘れていたのだが、ウーム、疲れた…。