Haruko Nara Group@Blue Note:「アフリカへの想い」。

ニュースで、両親が日本人でアメリカ生まれの16歳のフィギュア・スケート選手が、「アメリカ代表」としてバンクーバー五輪に出場する事に為った事を知った。

彼女は16歳なので未だ「二重国籍」保持者なのだが、将来どちらの国籍を選ぶか判らないが、個人的には日本に帰り「ニ国籍でのメダリスト」を目指して欲しい(未だバンクーバーで取ったわけでは無いが)・・・。

どうでもいい話だが、嘗て「クリスティ・ヤマグチ」と云う日系2世のゴールド・メダル・スケーターがいて(最近は「DANCE WITH STARS」にも出ている)、筆者が米国入国の際に、イミグレーションで「何処の会社で働いているか?」等と聞かれ、答えると必ず「彼女の親戚か?」と突っ込まれた時期が有った(これは判る人にしか判らん:笑)。

さて日曜は午後から、妻とクラシックギターを勉強中のS君を伴って、友人のジャズ・ピアニストHARUKO NARAのライヴをBLUE NOTEに聴きに行って来た。

店内は日本人・アメリカ人を含め、結構な賑わい。毎週日曜日のこの「Sunday Brunch Live」は、ブルー・ノートの「売りの一つ」で、ライヴを聴きながら、ワン・ドリンク付きブランチ・メニュー(エッグ・ベネディクトや、アンガス・バーガー、ターキー・クラブ・サンド、各種オムレツ等々)が付いて30ドル程、料理も結構美味しく本当にお得である。

HARUKOさんはコロンビア大学で教える傍ら、国際交流基金の文化交流大使として、ここ数年中南米の各国を廻り演奏活動をしている、エネルギッシュなジャズ・ピアニストである。彼女とはもう10年近いお付き合いなのだが、初めてお会いしたのは、元裏千家NY主張所所長の故山田尚氏の自宅パーティーであった。

前にも書いたがこの山田氏は、お茶をNYに広めたに留まらず、伝説のディスコ「STUDIO 54」に着流しで登場し、当時のウォーホル等の文化人とも交流をした様に、ファンキーな所の有る方であったが、この方の紹介で妻とも知り合ったりしたので、自分があの世に行ってからも頭が上がらない方で有る(笑)。

さてこの日は「HARUKO NARA GROUP」としてのライヴで、ギターに増尾好秋氏(嘗て筆者も「スイング・ジャーナル」や「フュージョン」誌等で、良くお姿を拝見した。ソニー・ロリンズ・グループのメンバーとしても著名。)、ギニア人とコート・ジボワール人のパーカッション2人と、カメルーン人のヴォーカル&パーカッションの5人編成。

何故アフリカ人が3人も入っているかと云うと、HARUKOさんは大のアフリカ通で、自身もダンスとジンベエ・ドラムを習い、彼女の最近の音楽もアフリカ音楽に非常に影響を受けているからである。因みに彼女の親友となった筆者の妻も「アフリカン・ダンス狂い」となり、2人で「マリ」に行った程だ・・・女性は男などより余程逞しい(笑)。

スタートはやはり、アフリカン・ビート溢れる曲。カメルーン人、ジーノの「アフリカン・スキャット」の様なヴォーカルが入り、ドラムが跳ねる。聞くと、ギニア人ドラマーの方はHARUKOさんのドラムの先生、コート・ジボワール人の方は、何とコート・ジボワール国立バレエ団のダンサー兼ドラマーなのだそうだ。

途中からHARUKOさんもピアノから離れ、ジンベエ・ドラムに参加するのだが、しかしこのドラムの迫力はモノスゴイ。トランス状態に為りそうな程ドンドン引き込まれるのだが、やはりアフリカの「リズム」は途轍もなく「原始的」で、そして「本能的」である。

もう一曲アップな曲が入り、続いてはHARUKOさんのソロ・ピアノで、これはスタンダード曲「My Romance」。アフリカンとは打って変って、静かなロマンティックな曲で、聴かせる。誰を思い出して弾いたのであろうか、と思う程であったが、何時の日か「アフリカン・バラード」の曲を作って貰い、それを聴いてみたいと思った。

そして再びビートが弾ける名曲、「DRUM TREE」。ピアノとギターの前奏に、ドラムが力強く参入してくる・・・もう圧倒されてしまった。アフリカンのドラマーたちは、ハッキリ云って曲のリズムに無頓着で、乗って来ると走り始めてしまう嫌いが有って、成る程今日もそうだったのだが、何もメトロノームの様なリズムの曲が全て良いとは限らないし、乗り切ってしまうが勝ち、とも云えるかも知れない。

HARUKO NARAの「アフリカへの想い」が力強く弾けた、日曜の午後のステージであった。