現代バレエの行方:Houston Ballet@Joyce Theater。

今日も先ずは「告知」から。

ちょっと先の話だが、来る11月16日午後6:30より、元イッセイ・ミヤケのクリエイティヴ・ディレクターで友人の藤原大さんが、ジャパン・ソサエティに於いて講演を行う。

この講演は「Mastermind in Textile: An Evening with Dai Fujiwara」と題された、現在開催中の展覧会「Fiber Futures」に関連したイヴェントで、モデレーターをCooper-Hewitt National Design Museum のCara McCartyが努める。

大さんは、イッセイ・ミヤケの「A-Poc」ラインで著名なデザイナーで、今回の展覧会には以前此処でも記した「太陽の家」(拙ダイアリー:「土曜日の芸術散策」参照)の模型とヴィデオで参加している。そんな大さんの明るい人柄と視点の面白さで、楽しくもクリエイティヴな話が聞ける事請け合いである…皆さん、奮ってご参加下さい!

さて水曜日の夜は、友人のコレオグラファー兼「霊媒」(笑)のM嬢に誘われ、彼女の友人である楠崎なおさんが、「ソロイスト」として所属している「ヒューストン・バレエ団」の公演を観に、M嬢と音大生のF君と共にジョイス・シアターに赴いた。

ジョイス・シアターに行くのは、「山海塾」の公演以来だったが(拙ダイアリー:「伸ばした手の先に有る物、それは…:山海塾「TOBARI」@The Joyce Theater」参照)、この劇場のサイズは本当に程良くて、この日の会場も略満員の入り。

席についてパンフレットを見ると、この夜の演目は「Falling Angels」と「ONE/end/ONE」、そして「Hush」の3演目…そして、なおさんも出演する「Falling Angels」で公演は始まった。

この「Falling Angels」は非常にシンプルな舞台で、セットも何も無く、8人の女性ダンサー達もトウ・シューズを履いていない。音楽もスティーヴ・ライヒのアフリカ音楽を思わせるドラムのみ、伸縮する衣装を含めての全てが極めてミニマルだったが、その振付には我々が日常生活で使う様な「仕草」も盛り込まれていて、そこが中々面白い。

そしてその振付は、謂わば肉体の「連続と不連続」の「連続」を観る様で、例えるならば非常にシャープな「絵巻物」を観る様な感覚で有ったが、鍛え抜かれた「堕天使」達のダンスには、時にソロ・ダンサーを他のダンサーが取り囲んだりして、此処にも「アフリカン」な影響が見て取れたと共に、コンテンポラリー・バレエとダンスの境界が薄まっている事を実感させた。出演していたなおさんの踊りも鋭く正確で、見事なステージを作り出していた…もし機会が有ったら、なおさんのクラシカルなバレエも観てみたいと思う。

インターミッションを挟んでの2つ目の演目は、ジョイス・シアターのコミッション・ワークである「ONE/end/ONE」。

この作品は、ダンサー達の衣装もクラシックで、音楽もモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番に乗っての、一見クラシカル・バレエに見える演目だが、内容はかなりアクロバティックな作品である。

この作品を見終わって再確認した事は、筆者がバレエに対して最も個人的に求めているのは「優美さ」で有り、また此処迄アクロバティックな「バレエ」は、或る意味これはもう「バレエ」とは呼べず、大きな意味での「ダンス」では無いかと云う大きな疑問符が浮かんだ事である。

これは例えば、日本で能等の古典芸能の新作を観る時にも云える事なのだが、その新作が「新しい形の『能』」と謳われていても、大半は「これを何故『能』と呼ばねばならないのか?」と云う結果で終わる事が殆どで、どうせなら「自分が開発した、能からインスパイアされた新しい演劇・舞踊」とか呼べば良いのに、と単純に思ってしまう。

恐らく「バレエ」と云う芸術には、その芸術を「バレエ」と呼ぶ為のルールが有って、それに則っている限りどんなパフォーマンスも「バレエ」と呼ぶのだろうが、しかしその演劇や舞踊の持つ特殊な技術やメソッドのみ為らず、そのパフォーマンス・アートが歴史的に背負って来た、究極の「芸術的『味』」の様な物が消え失せてしまっては、そのパフォーマンスはもう「新しい芸術」と呼ぶべきでは無いだろうかと思う。こう云った所に、「現代バレエ」の行方のヒントが有るのかも知れない。

インターミッション中にそんな事を考えていると、最初の演目を終えたなおさんが我々に合流し、この晩最後の舞台「Hush」を一緒に観る。

こちらは如何にもアメリカ人好みの、非常にブロードウェイ・チックな舞台…バリバリの「20世紀」的セットと衣装、パントマイム的な振付、そして音楽は10年程前に話題に為ったボビー・マクファーレンとヨー・ヨー・マに拠る物だが、正直全てが古臭く感じてしまう…残念であった。

結局この晩、一番見応えが有ったのは最初の演目の「Falling Angels」だった訳だが、もう一点だけこの晩感じた事を、此処に記しておきたい。

それは、この日出演した若いダンサーを観て思った事なのだが、ダンサーやミュージシャンを含めた如何なる(特に若い)パフォーマーも同じだと思うが、本番前に厳しい練習をして来て、本番でも相当の自信が有ったとしても、実際の舞台ではそれを100%出さずに、その95-6%位に留めて踊ったり演奏したりした方が(と云うか、狭い意識的空間の中で一杯一杯に演じるよりも、より広い意識空間を持ってその中で100%の力で伸び伸びと、余裕と云うかその外への広がりを感じさせて演じる方が)、観客には素晴らしいパフォーマンスに映るのではないか、と云う事である。

これは特にバレエや群舞に於ける、他のダンサーとの「調和」の問題でも有るのだが、「私は踊れるのだ」と云う事は判る人には判るので、どちらかと云うと、「あの人は良く踊っている…でもまだ余裕が有りそうだ」と観客に感じさせる方がより「芸術的」だと思うし、観ている方も肩に力が入らず疲れない…「これでもか!」は、何の世界でも辟易する物なので有る。

公演終了後は、M嬢、F君、そしてなおさんも合流し、チェルシーのピザ屋「C」で軽い夕食。椎茸やホウレン草の美味しいパイを頂きながら、此処に記した様な事も含めて、食事と会話を楽しんだ。

「現代バレエ」のみならず、歴史を持つパフォーマンス・アート全ての「現代」と「変革」に就いて、色々と考えさせられる一夜と為った。