昔持っていた夢。

昨日の午後、ポッカリと時間が空いたので、「或る事」を一時間だけする事にした。

それは「ピアノ」である。一応3歳の時から先生に家に来て貰い、「末はクライバーンか!」(当時彼はスーパースターで有った)と親も勝手に期待していたのだが、レッスンから脱走するわ、女の先生は泣かすわで、酷い生徒だったらしい(もう中年なので、記憶が無い:笑)。

高校生時代はヘッポコバンドをやったり、高校時代の終わり頃には、当時六本木に在った、有名ピアニストSが経営する「B」と云うジャズクラブに通い、Sに自分の演奏を聞いて貰ったりもしたのだが、その結果は云う迄もなかろう(笑)。そして浪人中は予備校のお金を使い込んだ末、高校の音楽室を訪ねては、ビアノに「遣り所の無い青春の怒り」をぶつけていたのだ。

てな具合だが、たまーに弾く為にニューヨークのアパートに持っていた「エレピ」も、昨年滔々友人のジャズ・ヴォーカリストに売り飛ばし、「下手の横好き」としては淋しい思いをしつつも、ビアノとの決別を覚悟したのだが、最近リンカーン・センターでガリック・オールソンのショパン・リサイタルを聴き、それ以来何と無く指がムズムズしていたのだ。

そして昨日、或る打ち合わせが延期に決まった瞬間、我慢の限界、意を決して淡路町の「宮地楽器」に飛び込み、スタジオを借りる事にした。受付のお姉さんに、力を込めて「1時間だけお願いします」と云うと、「アップライト、グランドのどちらになさいますか?」と聞かれたので、せっかくだからグランドにしようかとも思ったのだが、自分の「腕」ではグランドピアノ様に申し訳無いと思い(金を払うのだから、そんな事を思う必要等無いのだが…変な所で気が弱い)、安いアップライトの部屋にする。

スタジオを目指すと、狭い通路には女の子達とその母親達で溢れている…ビアノ教室が行われているらしい。こう云う時に限って、使うスタジオは一番奥の部屋で、彼女達の間をスーツ姿のデカイ中年男がノッシノッシと進む。「大魔神」を見る村人の様な視線を感じたのは、気のせいだっただろうか。

部屋に入り、早速ビアノを開ける…あぁ、ビアノだ♪!スタジオの良い所は、どんなに下手にメチャクチャに弾いても、誰も文句を云わない事である!

先ずは小手調べに、「MISTY」を弾いてみる…何と云う事だ…暗譜していた筈なのに、思い出せないパートが有る(泣)…。大好きだった「WHISPER NOT」や「DAYS OF WINE AND ROSES」等を次々と試すが、思い出せなかったり和音が巧く押さえられなかったりで、ガックリ。

気を取り直して、今度はクラシックに挑戦。「月光」や「エリーゼのために」(涙)、ショパンノクターン等を弾いてみるが、やはり指が動かない…もうダメだ。自信喪失ながらも、しかし闇雲に弾き続ける。その昔高校時代未だ実家に居た頃、ショパンを練習中、必ず間違える難しい箇所が有り、二階の書斎で執筆中の父親が「今度こそ巧く弾けるんじゃ無いかと思って、ペン止めて聞いているのに、何でお前はいつも同じ箇所で間違えるのだァー!」と怒鳴り込んで来た箇所で、再び間違える…人間、そうは変わらない(笑)。

巧く弾けないイライラと、疲れ果てた指で鍵盤を叩き捲っている時、ふと視線を感じて振り向くと、厚いドアの小窓の向こう側から、一人の女の子が、見た事の無い生物を見る様に筆者を凝視していた。厚いドアでも、流石に音が漏れていたのだろう…。手を振ったら、彼女は顔を背け、脱兎の如く逃げて行った。

まるで自分が昔持っていた、「ピアニストになりたい」と云う「夢」の様に…。