「生きている事が全て」:辻井伸行@カーネギー・ホール。

またまた極寒に戻ったニューヨーク…そんな寒い夜に心が芯から暖まる、アメリカ人の友人から貰った或るDVDを観た。

そのDVDとは「A Surprise in Texas」。2009年に開催された「第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」のドキュメントで有る。

恐らく若い人は、第1回チャイコフスキー国際コンクールを23歳で制し、昨年亡くなったこの往年の天才ピアニスト、ヴァン・クライバーンの名前等知らないかも知れない。僕がピアノを習っていた子供の頃、母親が大のクライバーン・ファンで、何度彼の弾くラフマニノフチャイコフスキーを聞かされたか判らないが、その後この天才は挫折し、アーティストとしても大成しなかったのだが、今では本人よりもこのコンクールの方が有名に為って仕舞った。

さてこのコンクールでは、世界から30名(この回は1名が棄権)の若手ピアニストが参加し、セミファイナル12名、そしてファイナルの6名を経て、最終的に3人の受賞者が決まる。その過程をピアニスト・家族・ホストファミリーを通して描いて居るのだが、タイトルに有る「a surprise」とは、云う迄も無くこのコンクールでゴールド・メダルを獲った日本人盲目ピアニスト辻井伸行の事で、この作品は辻井がそのコンペティションを勝ち抜いた記録で有ると共に、珠玉のピアノ曲と優秀なコンペティター達の素晴らしい演奏を楽しめる内容と為って居る。

此処で観る、当時まだ20歳だった辻井の演奏は誠に感動的で、特にショパンのピアノ・コンチェルトには涙が止まら無かった…其れは何故なら、辻井が1音1音を慈しみながら弾いて居る、その心が鋭く観衆に届くからで、「芸術」と云う物が人間を感動させる為にこそこの世に存在するならば、最低限の「技術」は当然必要だとしても、その技術を超えたピュアな「心」こそが卓越した真の芸術を産むのだ、と云う事を改めて教えてくれるのだ。

その事を象徴していたのが、DVD最後のメダル授賞式のシーン。クライバーンが辻井の首にメダルを掛けた後、両腕で確りと小柄な辻井を抱きしめたのだが、同じく「若き天才」と呼ばれたクライバーンが辻井の才能と演奏、そして「心」を愛しんで居るのが良く伝わる、非常に感動的な場面で有った。

そしてそんな彼の「1音」を確かめる為に、先週末カーネギー・ホールに行って来た。

今回のコンサートは、ニューヨークを本拠とする「指揮者を持たない」小編成オーケストラとして高名な、オルフェウス室内管弦楽団の「オール・ベートーベン・プログラム」で、辻井は「ピアノ・コンチェルト5番:皇帝」を客演する。

到着したカーネギーでは、ギュウチャン(篠原有司男)& 乃り子夫妻にバッタリ。「3月2日のアカデミー賞授賞式に行くんですか?」と聞くと、「おう、俺は50年前に買ったタキシード着て、乃り子のはもっとスゴいよー」(笑)との事…愈々以って、アカデミー長編ドキュメント賞候補に為って居る「キューティー&ボクサー」の結果が楽しみになって来た!

閑話休題。着席して周りを見渡すと、会場には空席がチラホラ有って、8割5分位の入りで有ったか…そして最初の演目「コリオラン序曲 作品62」、続いて「交響曲第2番 ニ長調作品36」が演奏された。

指揮者が居ないにも関わらず、オルフェウスの弦とアンサンブルは確かに素晴らしい。がしかし、少人数なので少々音の大小・抑揚に乏しい事と、矢張り指揮者が居ない事で「個性」が見えない、と云うのが正直な感想だったのと、恐らくこの楽団は「客演」を以ってして、初めてその真価を発揮出来るのでは無いか、と感じた。

そして当にそれが証明されたのが、インターミッション後、何時の間にか満席と為っていた観客を魅了した、辻井との共演で有った。僕達は彼の前回のカーネギー公演に行けなかったので、今回が生の演奏を聴く初めての機会と為ったのだが、結論から云えばこの「初めて」は「永遠」に為ったので有る!

ベートーベンの「皇帝」は長く難しく、構成も大きな難曲だ。そしてDVDでも観た様に、盲目の辻井に取って「協奏曲」は、恐らくは実生活でも起こり得るであろう「周囲との折り合いの困難さ」が垣間見えて仕舞う可能性の有る演目だし、彼よりもっと正確に、上手く弾ける人も居るだろうと思う(実際、翌日のニューヨーク・タイムズは、この晩の辻井の演奏を酷評した)。

が、上に記した様に、辻井が奏でる「1音」には奇跡的な物が有って、その「1音」を聴いた時の驚きと感動は計り知れない。

そして、勿論彼が盲目で有ると云う事実を踏まえた上で、そのテクニックに感動する訳だが、この晩総立ちになり、散々カーテン・コールを要求したカーネギーの大観衆、いやオルフェウスの楽団員達ですら(辻井の演奏中に見せた、楽団員達の驚愕と羨望の顔が忘れられない)、アンコールの最終曲だったショパンエチュード「革命」を聴き終わるのを待たずに、その感動の最大の理由がニューヨーク・タイムズが指摘する様な点では無い事を、確実に理解したと思う。

それは、つまりは辻井の様な盲目の者だけが特別に持つ超人的なイマジネーションの産物で、我々には計り知れない「美」に就いての感覚の事だ。

我々が通常感じる「美」は、基本的に眼にしたり耳にした事の有る物を基準にして仕舞うから、自ずから制限されて居る。それは以前此処に書いた様に(拙ダイアリー:「『美人』の母を持つピアニスト」参照)、一度も顔を見た事の無い母親を「美人」と呼び、手で触れただけの花を「綺麗だ」と云える彼には、その制限等存在しないからだ。そしてこのピュアな「心」の特権は、視力を失ったからこそ得られたのだと思う。

この事は、以前此処に記した盲目のダンサー(拙ダイアリー:「失ったからこそ、得る物:橋本真奈@Tenri Cultural Foundation」参照)のパフォーマンスでも感じた事なのだが、「人生は『プラマイ・ゼロ』」…人間は「失った物が有るからこそ、得る物が有る」し、「その為には、生きてさえ居れば良い」と云う「強い心」の証なのだ。

唐突だが、今、僕の大事な若い友人が癌と闘っている。

今回の辻井伸行のコンサート中、何度その友人の事を考えたか判らないが、彼の演奏は「生きてさえ居れば、大丈夫。頑張って生きろ!」と、その友人に声を大にして伝える勇気を僕に与えてくれた。なので、今日のダイアリーはその友人へのメッセージで締め括りたい。


癌と闘っている君へ。

こんな時でも人の心配をしている君は、本物のお人好しですが、いつでも人の事を思いやる君のその美しい心は、辻井君の奏でるピアノの「1音」の様に、素直で、自然で、ピュアで有るが故に、病で何かを失ったとしても、君の人生に新しく「得る物」をもたらすに違い有りません。

生きている事が全て。その為に僕達は、最大限の応援と祈りを君に送り続けます。美しい音楽が、優しい風景が、美味しい食べ物が、楽しい仲間が、そして新しく「得る物」が、君の回復を首を長くして待っています。

頑張って生きて下さい。何故ならそれらをまた楽しめるから。
そして、また君に会えるから。

孫一