年年歳歳花相似。

寒い冬がまるで嘘の様に突然終わり、この街にもやっと春が来て、今ニューヨークは街中も公園も「花盛り」である。

ここ数年、毎朝お菓子を1つと、愛用の「殿」の黒茶碗で薄茶を一杯頂くのが習慣になって居るのだが、「花」の季節になった今年は、その一服の折にも、一抹の寂しさが拭い切れない。

昨日は、昨年死去された元ニューヨーク裏千家出張所所長、山田尚先生の一周忌の「偲ぶ会」に出席した。

そう、山田先生の死去は、忘れもしない昨年4月18日、丁度イエール大学で大規模な「茶の湯」シンポジウムが開催されている最中の出来事であった。明け方T女史より電話が有り、自宅に駆けつけたが間に合わず、悲しみの中で皆あたふたと動き回って居た。そしてその朝、当時一年間の文化交流大使としてNYに滞在され、イエールでのシンポジウムにも参加して居られて、偶然その日にデモンストレーションをする予定であった千宗屋氏に、「何故か」山田先生逝去の件を連絡して「しまった」のだ。

この「何故か」は、良く良く考えれば「何故か」では無かったのかも知れない。何故ならば、千氏はNYに来られて以来、アメリカでの「茶の湯」の普及に勤められ、山田先生の「裏千家引退お疲れ様会」に出席して頂いた時にも、先生の功績を讃えて下さっていたからである。その時のレセプションでは、流派は違えども千家家元後嗣にお祝いを頂いて、山田先生も本当に嬉しそうであった。

先生が亡くなられた週末、皆で協力して「お通夜」を済ませ、筆者も会社に戻った翌週の月曜日、NY随縁会のK女史より連絡が有った。話は確か葬式の事だったと思うが、会話の最中にK女史から偶々、「千さんが、イエールのデモンストレーションの時、始める前に山田先生逝去の事を観衆の皆さんに話し、『このデモンストレーションは、流派は異なるが、長年アメリカに於いて茶の湯の普及に努めた、裏千家の山田氏への献茶と云う事にする』と云う事で行われました」と云う、筆者も「知らなかった」事実を聴かされたのだった。

その瞬間、オフィスに居たにも関わらず、千氏の「茶の心」に、涙が止め処も無く溢れた。それは、全米、いや世界から「茶の湯」の為に集まった多くの人々の前で、自分が生涯を捧げて異国の地で伝播しようとした「茶の湯」の「完成者」の直系の方に、自分の為に追善の「献茶」をして頂いた事は、山田先生に取ってこの上無い「弔い」で有ったに違いない、と強く感じたからだ。近しい者を代表してこの場を借り、改めて千宗屋氏のお心に感謝を申上げたい。

そしてあれから、早や一年が経った。

昨日の「一周忌会」は、T女史のお考えで総勢16人とこじんまりと行われ、先ずお宅に集まり、ご焼香した後簡単なパーティー。そして場所を近所のレストランに移し、食事会となった。

アメリカ人を含め、山田先生と親しかった人々は、皆にこやかに、そして時には大爆笑も聞こえる程に明るく食事をした。食事の最中に、T女史が「ナンだ、ナンだ、山田先生の話題がちっとも出ないわね!」と冗談で云っていたが、皆そんな事は判ってると云った具合で、我々の頭の遥か上の方では、自分の話題など出なくとも山田先生がニンマリされているのを、手に取るように感じていた筈だ。

人の死は、色々な形で残された人々に「面影」を残す。そしてそれは、もしかしたら亡くなった人の「人格」の事なのかも知れず、「『一周忌』の食事会で本人の話題も余り出ず、涙も無い」と云うのは、特に山田先生「らしかった」のでは無かったか。其処に集まった人々の共通点は、山田先生との強い「ご縁」であり、先生を偲んで一年振りに皆で顔を突合せ、大笑いする。これぞ先生の望まれる、残された者達が「残された縁」を大事に確かめ合う、「明るい」偲ぶ会であったと感じた。


年年歳歳花相似 歳歳年年人不同


今年の「花」の季節の到来は、山田尚先生の「不在」を強く感じさせる。
そして先生の命日である4月18日、先生主催の食事会で知り合った僕ら夫婦は、6回目の結婚記念日を迎える事になる。