「静聴せよ!」:森村泰昌レクチャー@Donald Keene Center of Japanese Culture.

昨晩は、コロンビア大学の「ドナルド・キーン日本文化センター」で行われた、現代美術家森村泰昌氏の講演会「Why I Posed As Yukio Mishima」に行ってきた。

ご存知森村氏は、有名西洋絵画の登場人物や、歴史上の重要人物に「扮装」して制作する「セルフ・ポートレイト」を通して、消費文化やジェンダー、西洋美術と日本美術等を考察してきたが、今回のレクチャーは「三島由紀夫」に焦点を絞ったものである。

それは何故かと云うと、そもそもこの「キーン・センター」の名前の由来である、今年88歳になられる日本文学研究者ドナルド・キーン先生が、実際に三島との交流を通じて、三島作品のアメリカでの紹介に尽力された方と云う事で、森村氏の近作「なにものかへのレクイエム」シリーズに登場する「三島」をメイン・テーマにした講演となったらしい。

実は筆者が「三島」を考える時には、或る一つのイメージが「強烈に」脳裏に浮かぶ。それは、忘れもしない1970年11月25日、三島が割腹自殺をした日の「朝日新聞夕刊」に掲載された、血生臭い「現場写真」である。

この写真は勿論モノクロだが、今でも鮮烈に覚えていて、小学校から帰って来た時に、ポストから夕刊を取って来るのが仕事だった筆者は、その写真を良く観るにつけ死ぬ程恐くなり、「大変だー、首が切れてる!」と叫んで親に新聞を渡した事まで記憶している。そしてその晩は恐くて恐くて全く眠れず、両親もテレビもずっと三島の話していた様に思う。

この事は、自分の「三島」に対するスタンスを決めた幾つかの大きな事柄の1つで、筆者に取っての「三島」とは、「小説家が切腹した」人では無く、「切腹して首を切られた人が、実は小説を書いていた」と云う人なのだ。

これは恐らく、普通の人とは「逆の」三島観なのでは無いかと思う。それともう一点は、幼少の頃より大変なお世話になり多大な影響を受けた、右翼思想家Y先生の三島観であるが、今回此処には記さない…また三島の作品に関しても時を改める。

さてレクチャーだが、「何故私が海外名画の登場人物に扮するのか」から始まり、現在進行中のプロジェクト「20世紀の再考」迄、森村氏に拠る自作品の紹介と解説と共に進んだ。スクリーンに映し出される作品に、会場からは時たま笑いも洩れたりしたが、素晴しかったのは森村氏がレクチャー全てを「英語」でやられた事で、レクチャーを始める前にご本人が仰った、自分の言葉・声で出来るだけ伝えたいとの思いは、観衆に十二分に伝わったと思う。

その中でも、森村氏が自身の作品制作の礎を説明するのに使われた、「レクイエム」シリーズ中の「昭和天皇マッカーサーの会見」作品解説をされた時に、「マッカーサーが父親、昭和天皇が母親、そして自分はその米日の『娘』だ」と話された事に、非常に共感を覚えた。

それは何故かと云うと、日本は敗戦後急激に「女性化」したのでは無いかと、何時も感じていたからだ(今は正にその「極限状態」ではないか)。また「西洋(米国)−日本」と云う二つの異文化の中で揺れ動く日本人の「(芸術的)アイデンティティ」は、終戦後の「日米近代政治」に恐ろしく影響されて来たし、そのアイデンティティの「不確かさと不明瞭さ」を鋭く突く森村氏の作品は、この「21世紀」がその最たる状態に確実に有るのだ、と云う事実をあからさまに伝えていると感じた。

そしてレクチャーの最後には、その渦中に居るアーティスト、森村氏本人が「自分を含めて」パロディ化した「三島」のビデオ作品が上映された。その中での森村氏の、三島の自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説を借りての、「誰も聞いていない人々」に訴え掛ける「芸術(家)の虚無化」の演説内容は、「全て」そして余りにも正しい…日本の全放送局で放送すべきである(笑)。

その上映中筆者は、三島に扮した森村氏が「芸術家はぺこぺこするな!」、「売名行為に現を抜かし…」等の台詞には「そうだー!」と声を挙げ、「万歳三唱」のシーンでは一緒に「バンザーイ」と「心の中」(泣)で声の限り尽くして、思い切り叫んだのだった(笑)。

ちょっとショックだったのは、8分間の上映が終わった瞬間、会場は万雷の拍手と思いきや静まり返っていた事で、筆者夫妻が拍手を始めると、やっと会場から拍手がパラパラと起った程であった…観衆には判り辛かったのであろうか。森村作品をより良く理解するには、時間の制約は如何ともし難く、後のレセプションでも「森村氏は右翼なのか?」「マッチョなのか?」との話題が出た程で有ったが、ウーム…非常に残念であった。

レセプションでは、森村氏とも歓談し楽しい一時を過したが、そのレセプション最中に旧知のモアマン教授から聞いた話で1つ印象的だったのは、キーン先生がビデオ作品途中にレクチャー会場を途中退席された事で、キーン先生は未だに「三島」を愛し続けている故、日本に行く時にタクシーに乗っても市ヶ谷付近は通らず迂回する程で、今でも「市ヶ谷(割腹)」に係る事物を直視出来ないのだそうだ。三島の人物や作品を愛する人々の、三島に対する「愛」の強さを感じるエピソードで有った。

「三島」と「日本の芸術の将来」を再び考える、良いキッカケとなった素晴しい講演会だった。