THE RUSSIAN STRAVINSKY:Gergiev@Avery Fisher Hall.

昨晩は妻とリンカーン・センターに、ヴァレリーゲルギエフ指揮、ニューヨーク・フィルの「All-Stravinsky Program」を聴きに行って来た。

この音楽会は、ニューヨーク・フィルに拠る「The Russian Stravinsky:A Philharmonic Festival」のオープニングで、来月頭までストラヴィンスキーの曲を「トコトン」演奏する試みである。ニューヨーク・フィル音楽監督であるアラン・ギルバート指揮のプログラムも有ったのだが、「ストラヴィンスキー」と云えば、誰が何と云っても「ゲルギエフ」であろう!

さて、アイスランドの火山噴火の影響は、昨晩のコンサートにも実は重大な影響を与えた。それは、ゲルギエフ音楽監督・総裁をしている「マリインスキー劇場」のコーラスが、ニューヨークに来れなくなってしまった為に、急当初予定されていたプログラムの1つ、バレエ・カンタータ「Les Noces(邦題:結婚)」が急遽変更となってしまったのだ。幸運だったのは、ゲルギエフ自身が何とか間に合った事で、リンカーン・センターはプログラム変更の決定と共に、速やかに来場者へその旨のメールを送ったのだった…流石である。

会場は満員、至る所でロシア語も聞こえ、期待感溢れる雰囲気である。今日の席も前から8列目の真ん中、ゲルギエフの息遣いも聞こえそうだ。そして、その「Les Noces」に代わるバレエ曲、「Jeu de Cartes(邦題:カルタ遊び)」でコンサートは始まった。

急遽プログラムが変更になり、恐らくリハーサルの都合も有って、管楽器と太鼓がメインのこの曲に変更されたのかもしれないが、ゲルギエフがステージに現れると、会場は万雷の拍手。実はゲルギエフ本人を目にするのは、これが初めてだったのだが、写真等で良く見る嘗ての「野生味」は残す物の、57歳と云う年齢とその風貌は、或る種落ち着きを見せており、中々渋く格好良かった。

この「カルタ遊び」は、元々アメリカン・バレエの為にストラヴィンスキーが書いた、コミッション・ワークである。非常に難しい曲で、しかも突然の曲目変更と云う事も有り、演奏者も苦労したのではないかと思うが、この「ポーカー」をテーマとし、トランプの4つのマークのヴァリエイションを聞かせる辺は、「ザ・ストラヴィンスキー」で楽しめた。しかし「歌曲」も聴きたかった…残念である。

二曲目は、ドビュッシーの追悼として捧げられた「Symphonies d'Instruments a Vents(邦題:管楽器の為の交響曲)」で、ニューヨーク・フィルが登場。しかしこの交響楽団を見る毎に、オーケストラ・メンバーに「アジア人女性」が多くなっている気がするのは、気のせいであろうか。プログラム掲載のメンバー表を見ても、圧倒的に中国・韓国系が多い…ジュリアードも同じ状況らしく、余りの韓国人学生の多さに「コリヤード」と揶揄されている程である。勿論技量も優れているのだろうし、ニューヨークと云う土地柄も有るのだろうが、外国の交響楽団にアジア系が多「過ぎる」のは、何故か何処と無く落ち着かない。

それはさて置き、2曲目のプログラムが始まった。最初、オーケストラと指揮者の呼吸が今1つ合わない様に感じたが、徐々に息が合って来て、ストラヴィンスキー独特の「劇的」な曲の流れと、ゲルギエフの良い意味での「演劇的」指揮がガッチリと噛み合い、非常にノリが良かった。この曲は非常に唐突に、そして劇的な幕切れで終わるのだが、最後の一音でゲルギエフがその握り締めた左の拳を振り下ろした瞬間のカタルシスは、筆舌に尽くしがたい程に素晴しかった!

総立ちのオベイションの後は、インターミッション。そして後半は、ご存知「火の鳥」(完全版)。

「L'Oiseau de Feu(火の鳥)」(1910)は、ストラヴィンスキー28歳の作品、そしてゲルギエフの十八番でもあるが、この曲はストラヴィンスキーの代表曲と云うだけで無く、恐らく近代音楽の中でも最高傑作の1つだろうと思う。それはこの「火の鳥」が、「20世紀(近代)音楽」として、ロマン派や新古典主義的な美しい旋律、近代的な恰もジェットコースターの様な曲展開、そして緊迫感等を持ち合わせるからだ。

さてこの曲が始まると、オーケストラの顔付きが明らかに変わった。前の曲で碌に指揮者の顔も見ていなかった楽団員も、ゲルギエフの一挙手一投足に目を当てる。そして流石ニューヨーク・フィル、鍛え抜かれた弦と管、特にこの曲で重要な「管」(2階バルコニーのトランペット:「バンダ」を含む)は、素晴しい演奏を聴かせた。

それにも況して、壮大なオーケストラの演奏の中で、宝石の様に鏤められたヴィオラ、ヴァイオリン、チェロ、オーボエの「ソロ・パート」の美しさ…そしてこの「火の鳥」は、筆者に或る事を連想させたのだった。

それは…「ジャコメッティ」である。以前此処でも「『ジャコメッティ』は近代と現代を繋ぐ、重要なアーティストだ」と書いたが、ストラヴィンスキーも同じ意味で重要なのだ。19世紀の美しき甘い香りを保ちながら、それを現代的造形の中に鏤める。この二人の偉大なアーティストの仕事には、コンテクスト重視の現代芸術の中に、如何に「美」を表現するかと云う「ヒント」が有るように思う。

火の鳥」は手に汗握るほど完璧な演奏で、終了後は聴衆のみならず、指揮者、オーケストラも興奮状態。

流石ゲルギエフ、「ロシア」の血は健在であった。