「歌うクジラ」:続「文学音楽のすゝめ」。

カタログ制作追い込みの余りの忙しさと、夏バテに拠る体調不良でもうヘロヘロ。そして昨晩行く筈だった、ミート・パッキング・エリアに在る「スタンダード・ホテル」での、会社主催の「スタッフ・サマー・パーティー」にも行けず、黙々と校正に励む(涙)。

さて購読しているメルマガ、作家村上龍主宰の「JMM」に拠ると、村上氏の新作「歌うクジラ」が電子書籍化され、音楽は坂本龍一、表と裏表紙にはアニメーションが使用されるとの事。フム、滔々そう云う時代が来たか、と云う感が強い。しかし、これは流石映画監督経験の有る村上氏の企画らしいのだが、この坂本龍一の音楽こそ、「映画音楽」為らぬ所謂「文学音楽の誕生」と云えるのでは無かろうか(拙ダイアリー『「文学音楽」のすゝめ』参照)。

この「歌うクジラ」も坂本氏の音楽も、未だどう云った内容か判らないので何とも云えないが、しかし、文学の醍醐味の一つには「想像力」と云う事も有って、読んでいる小説の場面場面で、自分で「勝手に」キャラクターの容姿や、音楽や効果音を想像する楽しみも大きい。勿論I−Padでは音声も消せるだろうから、自分はこの箇所では音楽は要らない、この音楽は合わない、と云う人は聞かなくて済むのだろう…ここが映画音楽との決定的な違いで、選択の余地が有るのが宜しい。

しかし嘗て前述のダイアリーでも述べた様に、小説家自身が自分の作品を「この音楽で聴いてくれ」と云う、積極的アプローチが有っても良い訳で、況してや村上龍の新作小説、そしてその為に坂本龍一が作曲した曲だとすると、やはり一度は聴いてみたいと思う…新しい形態の小説の可能性が、此処に有る様な気がする。

また昨年、若冲の新発見「象鯨図屏風」をMIHO MUSEUMで観てから、そしてライアル・ワトソンの「鯨と象が呼び合って対峙した話」を読んでから(拙ダイアリー『平安若冲製「ロミオとジュリエット」』参照)、社会人に為り立ての時代以来の、鯨への異様な関心が増している現在、村上龍の小説自体がかなりの楽しみでも有る。

この様に小説家と云うアーティストも、電子書籍の登場に因って一つの大きな転換期を迎えているらしい。しかし個人的には、如何なる芸術の分野に於いても、余り「安易に」コラボレーションを推奨したくない気持ちも有る。それは、コラボに因って各々のアートの「濃度」が薄まる危惧が有るからで、勿論「倍」に為る事も有るだろうが、筆者は余りその例を知らない。これは良く云えば協調、悪く云えば妥協だが、と云う事は、生来コラボの出来ない個性の強いアーティストも居る筈(と云うか、居なければ困る)だから、相手を飲み込んでしまったり、飲み込まれたりする事も充分有り得るのだ。

また「映画音楽」と云う音楽は、如何にそれ自体が素晴しく、後にその曲が一人立ちする事は有っても、生まれた時はやはり映画の「為の」音楽として作られるのだろう。筆者は映画音楽の制作プロセスについて詳しく無いので歯切れが悪いが、その辺の感覚を何時か作曲家に尋ねたいと思う…それは、他のアートの「為の」アートだからで、どちらかと云うと「デザイン」的で、それ自体が最終目的で無く、何かの「機能」、「為」で有る様に思うからだ。今回の坂本龍一は、どの様な感覚でこの「文学音楽」を作ったのだろうか…興味は尽きない。

さぁ、校正に戻らねば!