しゃらくさい、「写楽」。

ニューヨークの暑さは少し和らぎ、ハドソン河に程近い我が地獄宮殿では、夜など窓を開けると涼しい風が吹いて来る今日この頃だが、こちとら相変わらずのカタログ校正の日々。

昨晩は、先日偶々気が向いて顔を出した母校のNY同窓会で知り合った、現在サウス・カロライナの大学でMBAを取得中の後輩で、今週までニューヨークでサマー・インターン中のO君と、行き付けの和食屋「T」で食事。

このO君は未だ24歳、しかし最近の若者にしては中々面白くて味が有り、同窓会中何故か意気投合したので、「よし、NYに居る間に旨い飯を食わせてやる!」との約束を果たす為であった。流石若いO君、本当に良く食べ良く飲む…。

色々な話をO君とはしたのだが、妙に印象に残ったのは、O君にはこの間まで上海出身の中国人の可愛い彼女が居たそうなのだが、最近彼女が仲間の中国人留学生達から、「何故日本人なんかと付き合ってるんだ!」と吊るし上げを食い、それが原因で上手く行かなくなってしまったそうだ…これも「国力の差」と云うモノなのだろうか…「彼女の奪還」を期待して止まない(笑)。

真夜中過ぎには、予てより作戦を練っていた、友人男子の為の「サプライズ・テレフォン・バースデー・コール」を実施。その男子が彼女とお祝いしている所へ、妻が彼女の母親役、筆者が父親役に為りって電話を彼女に掛け、「お母さんが、貴方と話したいって…」と云ってその男子に渡す。その後筆者が、「父親ですが…娘がいつもお世話になって居ります…」と少々怒気(と云うかスゴミ:笑)を込めて呟く、といった具合である。

結果は大大成功で、その男子がとても普段からは想像がつかない神妙さで我々に受け答えをするものだから、コチラはもう笑いを堪えるのに必死。しかし、誕生日オメデトウ御座いました!良い友人と彼女を持って、貴方はシアワセ者です!

さて、今日の本題。

東京神田生まれの三代目・江戸っ子としては、昔子供の頃に父親や近所のオッサンなどが良く口にしていた「言葉」や「台詞」が、最近頓に聞かれなくなったのが非常に寂しい。例えば、「俺の目の黒い内は、許さねえ!」(以前東京で、一回り年下の文筆家の方とタクシーに乗っていて、何の話だったか筆者が「俺の目の黒い内は…」と云ったら、その方が驚いて「そんな言葉、本当に久し振りに聞きました!」と吃驚していた:笑)とか「おととい、来やがれ!」、「なんだぁ、しゃらくせえなぁ、ったく!」とかで有る。

話は変わって、9月のオークションには、久し振りにそれなりの量の版画が出る。主に国芳の三枚続きや戯画、川瀬巴水伊東深水、吉田博等の「新版画」だが、久し振りに「写楽」が一点出品されるので、本日はその「サワリ」を。

今回出品される作品は、「四代目岩井半四郎の乳人(めのと)重の井」(大判竪絵・錦絵)で、エスティメイトは8万−12万ドル(約700万−1050万円)。バスト・アップの肖像画を「大首絵」と呼ぶが、写楽作画期第I期の雲母摺(きらずり)「大首」である本作は、寛政6(1794)年5月の河原崎座「恋女房染分手綱」に取材しており、当時大人気であった女形岩井半四郎をモデルとしている。が、全く綺麗でも美人でも無い、如何にも男が女装してますと云った具合の絵である。こんな調子で役者達を描き続けたのだから、当時の歌舞伎界が写楽に「総スカン」を食らわせたとしても、とても彼らを責められまい。

ご存知の方も多いと思うが、ここで少し絵師「写楽」の事を。今迄にも多種多様な「別人説」が提出されているが、東州斎写楽が一体誰(どの様な人間)で有ったかの確証が得られず、阿波蜂須賀藩のお抱え能役者、斉藤十郎兵衛説が真実に最も近いと思われているが、未だにその正体が判らない。

生涯浮世絵研究、特に写楽と広重を専門とする筆者の父親に、青年時代から何度も「誰だと思う?」と尋ねても、「別人説」に関する父の答えは何時も同じで、「誰でもない…『写楽』は『写楽』。」か「判らないから面白い。判らん方が良いかもな。フッフッフ。」で有った。最近になって、斉藤十郎兵衛の過去帳や新出史料が提出されて、俄然「十郎兵衛」説が強まって来ているが、筆者も実は「『写楽』は『写楽』である」説で良いのではないか、とも思う…作品が素晴しければ、作者名や誰か等、或る意味どうでも良いのだから。

そして、この天才絵師をデビューさせた稀代の出版プロデューサー、「蔦屋重三郎」の存在も忘れる訳には行かない。今で云う「風俗ドット・コム」的な情報誌「吉原細見」を出版したり、お上に楯突きお縄に為る事数回、最終的には身上半減され、絵師として育て上げた末「雲母摺美人大首絵」で大スターにしてやった「歌麿」には別の版元に移籍され、踏んだり蹴ったりの晩年であったが、その根性は見上げたモノである。今到る所に在る総合メディアショップの「TSUTAYA」の名の由来も、会長の増田氏がこの「メディア・レヴォリューショナー」の様になりたい、と云う「夢」を込めた命名であった。

さて、写楽に話を戻そう。この写楽の作画活動期は、1794年の5月から翌年正月迄の、たった「10ヶ月間」。

さて此処で皆さん、指を折って数えてみませう。5月から、6、7、8、9、10、11、12、そして翌年1月…あれ?…もう一回やってみませう。5、6、7、8、9、10、11、12、そして1月…「何だ、何だ、9ヶ月しかねぇじゃねぇか!何だぁ、お前ぇ、しゃらくせいなぁ!」(使い方間違ってますが…)と思う方は普通の方で、玄人の方はもうお分かりですね。そう、寛政6年には「閏月」が有り、11月、閏11月と、もう一月有ったのです…目出度し、目出度し。

因みに「しゃらくさい(洒落さい)」の本来の意味は、「身分不相応なお洒落をする事」、「成金が形や容姿だけを真似た、俗っぽい事」、「鼻持ちならない」と云うことらしい。これが「写楽」の名の由来とも云われるし、逆に「写楽」が「しゃらくさい」の語源とも云われている所など、それこそ如何にも「しゃらくさい」(笑)。

この写楽、一時期マーケットで価格が急落した事も有ったが最近持ち直し、ヨーロッパのオークションでも高額での落札が続いている。また、どうも日本では絵師としての人気も復活の兆しが見え、この秋サントリー美術館では「歌麿写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展が11月3日〜12月19日の期間開催されるそうだし、先年「北斎展」で大観衆を集めた東京国立博物館も、前述クルトの名著「写楽」出版100周年を記念して、来年4月5日〜5月15日迄「特別展 写楽」を開催するとの事…全く以って楽しみである。

忽然と消えた天才絵師も、草葉の陰でさぞかし「しゃらくせえなぁ…」と、照れ笑いしているかも知れない。