「1Q84」読了と、今此処に在る危惧。

先週の金曜日、「Inception」観賞後の夜は、建築家Sと作曲家Aのカップルとダブル・デート。

友人のYさんが経営する、イースト・ヴィレッジに在る和食屋「R」に初めてお邪魔したのだが、つくねや「アスパラ棒」(アスパラを白身魚で包み、周りに松の実を塗して揚げてある)等非常に美味しくて、その上お酒やアペタイザー迄サービスして頂いた…Yさん、有難う御座いました!食後さぞかし満腹と思いきや、或る意味「悪習」と為った感が有る「ハシゴ」をしようと云う事になり、ミッドタウンの「T」へ。此処でも4人でカレーや高菜炒飯を食し、結局解散は午前3時過ぎ。

翌土曜日は、今度は「G」のシェフAさんのご招待で、Aさんの自宅での「餃子パーティー」へ。いやその手作り餃子の美味しさったら無い!カリカリの皮に包まれた、豚肉と野菜タップリの具、焼き立てアツアツの餃子を、これまた手作り「食べるラー油」とポン酢、胡麻油で頂く…もう、パラダイスである!ご一緒した国連日本代表部の中東専門家、R氏も大変個性的且つ面白い方で、レバノンイラクでの話や、最近或る事で話題になった、某有名代議士の「息子」が中東に来た時の此処では話せない「裏話」など、役立つ話のオン・パレード。楽しく美味しい時間を過させて頂いた。

そしてそんな忙しい「食」の合間を縫って、村上春樹1Q84:Book 1−3」を読了した。

木曜の夕方購入し日曜に読了したので、全三冊を都合3日で読んだ事に為る。本を読むのは人と比べても恐らくかなり早い方だと思うし、通常複数の本を平行して読むのが常の筆者も、この間はこの「1Q84」に集中した事も有って(他にも理由は有るのだが)、よりスピーディーに読めたのだろう。

さてこの「1Q84」だが、一言で云えば「一大エンターテイメント小説」であった。内容はファンタジー、オカルト、ミステリー、サスペンス、SF、恋愛ドラマを複合的に組み立て、出てくるキャラクターも「女殺し屋」「作家」「編集者」「カルト教祖」「探偵」「巫女」、そして毎回御馴染みの「『春樹好み』の美少女」迄盛り沢山。文章は異常に読み易いし、SEXシーンもふんだん…これで売れない訳が無い(笑)。そして作品で展開される「殺人」、「文壇批判」、「DV駆け込み寺」、また「エホバの証人」や「ヤマギシズム」、「オウム」を思わせる「カルト教団」迄、話題性と云う点でもこれでもかの勢いである。

そして3日間貪り読み、それは当然読み易く面白いからなのだが、しかし読後に残る「モノ」が希薄なのは、一体何故なのだろう…。

色々と理由を考えた。先ずキャラクターで云えば、例えば「青豆」は、リュック・べッソンの「NIKITA」と「KISS OF DRAGON」の「Liu」との間の「娘」の様に読めるし、「タマル」はロバート・B・パーカーの「探偵スペンサー」の生まれ変わり、そのタマルと青豆の会話は、殆どスペンサーとホーク、もしくはスーザンとの会話に聴こえる。「リーダー」はX-MENの登場人物の様であるし、幼女との性交をする事が重要な「儀式」で有る所等も、嘗て何処かで読んだ感が有るので、新鮮味に欠けるのかも知れない。また「Book 2」迄と「Book 3」との間に、かなりの作品としての質の差が有ると思う…また大団円も、想像されるが故に個人的にはちょっと物足りない。

それにも況して「1984年」を、21歳の男子として「リアル」に生きた筆者としては、如何なジョージ・オウエル作品へのオマージュと云えども、この小説は飽く迄も「1Q84年」の話で有って、実際の「1984年」からのワープと云うか、著者の云う「列車のポイント切替え」の感覚は、残念ながら全く共有出来なかった。

そう、共有できないのだ。思うに、文学・小説には2種類のカテゴリーが有って、それは「純粋鑑賞小説」と「自己参入小説」である。美術品で云えば前者は、例えば「印象派絵画」で、簡単に云えば読む者(私)が全く傍観者的第三者としての「距離」を保ちながら読み進む作品、そして後者は喩えるならば「茶道具」で、読み手が「積極的に」物語に参入し、登場人物本人やその周辺の人物に「実際に為った気分」で、感情移入をしながら読み進む作品である。

そう云った意味で、この「1Q84」は筆者に取って余りにも「純粋鑑賞」作品であり、良くも悪しくも色々な意味での「体温」が伝わって来なかった事が、物足りなかった大きな理由なのかも知れない。春樹作品に毎回感じるこの物足りなさこそが、実は春樹文学の最大の魅力なのだとは思うが、この余りの空気の希薄感や、さも「何か奥にもっと深い意味があるのでは」と思わせる(実際有るのに、筆者が気付かないだけかも知れないが)「喩え」の巧さ、何故か何時も感じる「翻訳文学的」文体等、今回も筆者の心には、残念ながら余り響かなかった。

また、これも飽く迄も個人的見解だが、こう云った余りにも内向的で、人間が日常ディールして行かねば為らない、実際に社会に存在する大勢の生身の「他者」の存在を無視し、最小単位の人間関係だけが美しいと思わせる文学作品が、「何百万部」も売れてしまう今の日本と云う国に、正直大きな危惧を覚えてしまう。それは、我国が政治や経済の分野で世界地図から消えている現状に於いて、「引きこもり」や毎日の様に新聞を賑わす「DV」や「幼児虐待」、最近頓に耳にする井の中の蛙的「無知に因る、誤った『日本礼賛』」や、自己逃避的消極性に拠る若年層の「外国(旅行)嫌い」等、極度の、そして偏った「内向主義」を助長させるのに一役買ってしまう危険性が有るのでは、と危惧してしまったからだ。

別に、村上春樹作品が悪いと云う事では無い。しかしこう云う時代にこそ、「他者」との関係性に興味を持たせるような「外向き」の芸術、日本や世界、自分の「外側」をもっと知りたくなる様な小説、若年層の眼を開かせる文学を期待してしまうのは、贅沢過ぎるのだろうか。

何事も、一度大きく「外側」に向き、「外」に何が有るかを知る事をせずに、決してその「内の核心」を知る事は出来ない。