時差ボケによって生じた、早朝の4時間の為の「活字ルネッサンス」。

素晴らしいニュースが入って来た!

そのニュースとは、「ローザンヌ国際バレエ・コンクール」で17歳の菅井円加さんが優勝した事だ。新聞記事に因ると、菅井さんは「コンテンポラリー」部門でも優勝したそうで、此方の方が個人的にはかなり嬉しい。

菅井さんは30ヶ国、226人の頂点に立った訳だが、最終選考に残った21人の内に日本人が5人居たそうだから(本選には19人出場)、今の世界に於ける日本人のバレエのレヴェルは、かなり高いに違いない。

が、これからの菅井さんに期待する事は大きく、当然世界のトップ・プリマ・ドンナとして成功して欲しい…そしてその為には、所謂日本人が得意な職人的「技術」のみならず、「世界に通用する」感情表現や共演者とのコラボ能力、そして小さく纏まらない演技の大きさを会得して欲しいと思う。頑張れ、ニッポン女子17歳!

さて、本題。ニューヨークに戻って来てから、未だ数日…時差ボケとの闘いは続いていて、体調が優れない。

思えば先月、ミネアポリスへの旅や日本へ2往復した事もあって、「これは『不治の病』なのではあるまいか?」と思う程に、時差ボケに悩まされ続けて居る訳だが、この慢性化した肉体的且つ精神的拷問にも、唯一「救い」が有った。

それはこのひと月の略毎日、未だ暗い中、東京で入手した「たねや」のお菓子と共に、愛用の黒茶碗から湯気の立つお抹茶を飲む早朝の3時から、その日の活動を始める7時位迄の4時間程の、至福の「読書時間」の事である。

そして付け加えれば、碌な映画をやって居なかった先月のANAニューヨーク⇔東京便を、4回も乗った者が機内で出来る事と云えば、それはもう「読書」だけな訳で、我が身に新たなる「活字ルネッサンス」を興してくれたANAへの深謝も含めて(笑)、今日はこのひと月に読了した本を紹介しようと思う。


瀧口修造著「白と黒の断想」(幻戯書房

日本に於けるシュール・レアリズム評論の魁、瀧口修造の未収録美術評論集。

著者が本書で取り上げた作家を見ると、写真家で云えばスティーグリッツ、ストランド、モホリー・ナギ、フィリップ・ハルスマン(筆者も、彼が60年代にウォーホルを撮った作品を持っている)等、また近代美術作家で云えば、ピカソジャコメッティを初め、レジェ、マティス、ミロ、イサム・ノグチ等で、そして此処が重要なのだが、著者が同時代を生き感じた、当時最先端の「現代美術作家」達が対象となっている。

著者の文章は平易で、「時代」を感じさせるモノだが、多数入って居る未知の写真家達の作品図版や、時折挿入される著者自身の「詩」を含めて、アンドレプルトン等と直接交流した、日本に於ける「『シュール』の伝導師」としての面目躍如な著作と為っているが、しかしこの瀧口修造と云う評論家が「明治36年」生まれだと云う事を考えると、その当時の現代芸術に対する彼の慧眼に、驚きと畏敬の念を禁じ得ない。

余談だが、この本の出版元で有る「幻戯書房」は、神保町の筆者の家の隣の、小さなビルの2階に在る。この本の様に、美しく装丁され、示唆的で、さもすれば歴史の中に埋もれてしまう様な作家やテーマの本を作っている小さな出版社が、神田神保町界隈には多数存在していて、彼等のそう云った仕事を、筆者は本当に尊敬していると云う事を此処に付記して置く。


松井今朝子著「東洲しゃらくさし」(幻冬社時代小説文庫)

松竹での歌舞伎企画と制作の経験を経て、直木賞作家となった著者の「写楽」小説。

が、この著作は今迄の所謂「写楽とは誰だ」的謎解き小説とは少々異なり、写楽本人の身許調査と云うよりは、戯作者並木五瓶や版元蔦屋重三郎、役者瀬川菊之丞澤村宗十郎等の、写楽「周辺」に位置する人物や当時の歌舞伎界の習わし、仕組みや風俗に話の重点が置かれていて、其処が新鮮に感じられた。

以前、著者の「時代小説大賞」受賞作品で有る「仲蔵狂乱」を読んだ時も思ったのだが、著者は流石現代歌舞伎界を身を以て体験しているだけ有って、歌舞伎素人が見る視点から、ほんの少し外して見詰める歌舞伎界を誠に巧く捉えて題材にし、書いていると思う。

次回の「歌舞伎小説」も楽しみな一作で有った。


・ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著「アイ・ウェイウェイは語る」(みすず書房

ロンドン・サーペンタイン・ギャラリーのディレクターにして美術評論家、アート・インタビュアーとしても定評の有るオブリストの、アイ・ウェイウェイとの対話集で有る。

いまや現代中国を代表する美術家、建築家、詩人、キュレーターと為ったアイ・ウェイウェイは何しろ饒舌で、今となっては、或る意味「反体制の『広告塔』」化した感も否めない。

このインタビュー集でオブリストは、偉大なる詩人の父を持ちながら、父の追放後、僻地での悲惨な追放者生活を経験したウェイウェイの幼少期や、「地下出版時代」、世界が注目するブログ活動、都市計画を含む建築家としての思想等、ウェイウェイが当局に拘束される「以前」を聞き書きしている。

本書は重複する話題が度々登場するのが少々難だが、今をときめくマルチ・アーティストの「一面」を垣間見る事が可能な著作だ…が、「一面」と書いたのには理由が有って、此処に詳しくは記さないが、このアイ・ウェイウェイと云う人が、全く以て「一筋縄では行かない」トリッキーな人物だからなのである。

なので、この本は飽くまでもアイ・ウェイウェイと云うアーティストを知る為の初歩的参考書とし、彼のこれからの言動を注視する事がより肝要である、とだけ云って置こう。


町田康著「残響 中原中也の詩によせる言葉」(NHK出版)

芥川賞萩原朔太郎賞の受賞作家で有る著者が、中原中也の詩に随唱する形で綴った、謂わば「コラボレーション」で有る。

正直云って、筆者はこの作家の事を知ってはいたが作品は全く読んだ事が無く、つまりこの本を購入した最大の理由は、大好きな中也の名前に惹かれての物だった事を、先ず告白せねばならない。

そして読み進む内に、途中から奇妙な事に気付いた。それは、最初は当然この本の体裁に従って、中也の詩を読んでから著者の文章を読んでいたのだが、有る所から著者の文章を先に読み、その後に中也の詩を読む、と云う読み方に自然と為っていた事で有る。そして結果から先に云えば、何故かその読み方の方が、両者の文体とその「切れ味」をより楽しむ事が出来たのだった…。

著者の「飛び出しナイフ」的な言葉の数々から、どんな中也の詩が想起されるのか…この「逆転的コラボ」の読み方は、時を隔てたパンキーな2人の接近を、より身近に感じられると思う(個人的には、ですが…)。

しかし中也の「生ひ立ちの歌」は、何度読んでも涙が出る…何と素晴らしい詩なのだろうか(拙ダイアリー:「雪の日の詩」参照)!


杉本博司著「アートの起源」(新潮社)

このダイアリーでもお馴染みの、現代美術家杉本博司氏に拠る「懐古的美術評論集」。

そしてこの著作では、著者自身の作品や、多岐に渡る著者自身のコレクション中の作品を眺めながら、「杉本好」と呼ぶべき思想が堪能できる。

それは例えば、利休作一重切竹花入「おだはら」から産まれる新作能で有ったり、レンブラントエッチング知恩院蔵「阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)」の類似性の発見で有る。

はたまた、それは「ツレ」で有る五島美術館所蔵作品との偶然の邂逅を果たした「尹大納言絵巻断簡」でも有り、そして著者の最新建築である茶室「今冥途」でも有る訳だが、それらに代弁させられる「杉本好」の思想を、写真、建築、舞台制作、著述、そしてアート・コレクション等の多岐にわたる分野に於いて、著者が究極的に活用した「歴史の再生産」の成果が、本書に示されて居るのだ。

本書最後の、中沢新一氏との対談「歴史の歴史」も啓蒙的な一冊である。


カズオ・イシグロ著「夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」(早川書房

筆者の大好きな作家、イシグロの初短編連作集。

この連作に登場する人物達は、皆「音楽」に関わる人々である。それは例えば、共産圏出身のチェリストやギタリストだったり、昔馴らしたが今は忘れ去られかけているジャズ・シンガー、売れない不細工なサックス奏者だったりするのだが、皆一様に「不満足な境遇」に置かれている。

そして著者の作品に必ず登場する、これら「何かを欠損している人間」を暖かく見詰める眼差しは本作でも健在で、悲しい結末の物語にですら、O・ヘンリ的ユーモラス且つ軽妙、そしてロマンティックな文章力も手伝って、何時も最後に何かしらの「希望の香り」を読者に残す所が素晴らしい。

大好きだった巻末の作品「チェリスト」は、一読をお勧めしたい。


司修著「本の魔法」(白水社

装幀家で、川端康成賞受賞作家でも有る著者に拠る、自身が装幀した作品とその作家とを巡る、「第38回大佛次郎賞」を受賞した素晴らしいエッセイ集である。

嘗て自身が装幀を担当した中から、著者が本書の為に選んだ作家・作品は、古井由吉芥川賞受賞作「香子 葉隠」から始まり、武田泰淳の「富士」、中上健次「岬」、森敦「月山」、三島の「癩王のテラス」等、云ってみれば戦後を代表する「重い」名作ばかりで、取り上げられたその他の作家名を見ても、島尾敏雄埴谷雄高江藤淳等々、滄々たるメンバーが名を列ねる。

そして本作の最も素晴らしい所は、「装幀」と云う仕事が、以前此処で記した「ピアノマニア」のステファンの様に(拙ダイアリー:「ステファンの完璧な音」参照)、また嘗て誰もが楽しみしていたレコードの「ジャケット」や「ライナー・ノーツ」の様に、そして「映画音楽」の様に、或る秀でた芸術の「為の」アートで有り、装幀をするべき文学・小説をキチンと読み理解しなければ、到底クオリティの高いアートとして最終的な完成を得ない仕事で有る、と云う点である。

そしてその「完成」を見る迄、いや、見てからこそ続いて行く、著者と作家達との交流から得られる「人生観」は、著者のみならず、読んでいる我々にすら代え難い宝物となるのだ。

全てに於いて電子化が進む中、手に取る総合アートとしての「本」の、紙の香りや重さ、紙質に拠る手触り、眼に飛び込んで来る装幀やデザイン、そしてその中から得る「豊穣なる人生」…それは当に「魔法」としか呼び様の無い物なのである。


こうなると時差ボケも、もしかしたら或る種の「魔法」なのかも知れない(笑)。