「靖国」の想い出と、「覚悟」。

終戦から、もう65年…。

子供の頃駿河台下に住んで居た為、靖国神社の夏祭りや大例祭のお祭りには欠かさず行き、13年間その裏の学校に通っていた筆者には、「靖国」、「終戦記念日」と云うと、人とは些か違った想い出が有る。

先ず小学生の時。放課後通っていたフレンチ・スクールで出される、皆の為のオヤツ約60個(ミニ・パンケーキだったと思う)を友達二人と盗み、「靖国」に逃げ込んで繁みで全て食べた事。

高校2年の時、学園祭(「エトワール祭」と云う)実行委員の一人だったのだが、長い歴史の有るカトリック男子校史上、初めて「公式に」女の子と手を繋ぐ事の出来る企画を皆で考え、初め「ディスコ」を学校側に提案したが、これは当然拒否され、結局「フォーク・ダンス」に妥協したのだが(笑)、その「練習」と称し、知り合いの女子高生達を「靖国」に呼び出し、カセットテープで「マイム・マイム」等を掛けて皆で踊った。初めて会った女の子達と手を繋ぐ、緊張と興奮…何とウブだったのだろう(笑)。しかしそんな時でも、カトリック男子校生だった我々は、「練習」時毎回必ず「参拝」していた事。

大学生以降大人になってから、時折「8月15日」に参拝した時には、軍服姿で参拝する右翼やそれに反対する左翼に驚き、それは何故かと云うと、この「8月15日」と普段の日の、「靖国」が見せる「顔」が余りも違っているからで有った。

筆者の家の場合、両親ともバリバリの神道の家で育ち、且つ戦争経験者だが、考えてみれば、二人の口から戦争や靖国の話を聞いた事は、殆ど無い。その理由をあれこれ考えた事も有るが、きっと「云わない理由」も有るのだろうと思い、無理に聞いた事も無い。

戦争の記憶は、国家的にも家庭的にも、当然防ぎ様も無く、どんどん遠ざかって行くが、個人的に「靖国」は「憲法第9条」と同じで、存在する事自体に意義が有り、その存在に拠って、忘れてならない戦争の「記憶」を、「議論を以てして」日本国民に、「年一回、必ず過去の戦争を思い出させる装置」として存在すべきであると思う。

筆者のヘッポコ思想はさておき、昨日の午後は、妻が能楽師内弟子をしていた、シテ方観世流のS師をお訪ねした。S師のご子息であるY師が先日急逝されたので、そのお悔やみを申し上げる為である。

S師に拠ると、若手シテ方No.1の呼び声も高かったY師は、上海で開催された京劇、能、歌舞伎に共通する「楊貴妃」をテーマとした芸術祭に、S師や玉三郎と共に出演され、帰国された10日後の夜、お稽古を終えた後、肩の辺に痛みを覚え、救急車で病院に行ったその4時間後、「急性動脈解離」であっという間に亡くなられてしまったそうだ。

このY師の死は、友人の或る作家が云った様に、「人間の心臓が、その一秒後確実に脈を打つと云う保証は、何ひとつとして無い」事、そして人生の無常を改めて思い出させたのだが、昨日跡継ぎの急死に就いて、努めて明るく話されたS師の或る「言葉」に、震える程の感動を覚えたのだ。

そしてその言葉とは、「覚悟」である。

「覚悟」…悟るを覚える。「能役者と云う者は、演能中も普段の生活でも、『これが最後』と云う『覚悟』で臨まねばならない、と2歳で初めて稽古を付けてからの略50年間、毎日の様に息子に云い続けて来ました。ですから、息子は呆気なく死んでしまいましたが、息子も、そして私もその『覚悟』は出来ていたと思います。」と、時折微笑みながら、S師は話された。

80歳になる能楽師の、そして父親のこの言葉は、並大抵ではない。自己に厳しい者、修羅場を潜って来た者、道一筋に歩んで来た者、そして教える者に対して、愛と自信を持つ者にしか、この「覚悟」は出来ない。

改めてY師のご冥福と、心は既にお孫さんとの稽古へと向いているS師のご健勝を、心よりお祈り申し上げたい。

S師宅を後にし、夜は母の誕生日ディナーを、代官山のイタリアン「C」で。

昨日で母は73になった…お陰様で元気にしているが、当然会う度に年を取って行く。母の事は、以前此処に記したので繰り返さないが(拙ダイアリー:「母の誕生日に『熊野』を想う」参照)、元外務省キャリア官僚、その後学生旅館の嫁と為ったこの人も、相当な「覚悟」の人なのだ。

ハッピー・バースデーと共に運ばれて来た、アイス・デザートに一本立ったロウソクの火を吹き消した母の顔は、昼間のS師の言葉が深く心に残った筆者には、一瞬、修羅場の数々を潜り抜けて来た為に疲れ果て、しかし既に人生に於ける「覚悟」を決めた、「修羅物」の面(おもて)の様に見えた気がした。

戦争経験者や、道を究めようとする者、修羅場を見た者達に見る「覚悟」。それは、心と体の長く厳しい「努力」の賜物である。