「英語の壁」と云うモノは、本当に存在するか。

こんな日はもう二度と無いかも知れないと云う程の、爽やかでビューティフルな素晴しい陽気だった日曜は、ライターのM女史、作曲家のAちゃん、そして地獄女将との4人で、バッテリー・パークに在るイタリアン「G」のテラスでブランチ。

アンティパスト、ビーツが練りこまれたパスタやボンゴレ、そしてオーソブッコ迄、「今日、夕飯は要らないね」と云う程にガッツリと頂く。その後A姫とP王子が可愛い魔法瓶と共に合流し、「ハドソン・リバー・パーク」の芝生でピクニックをしていると、日本→ヴェニス(パートナーの「レム」が賞を獲ったビエンナーレ)→ヘルシンキアムステルダムと旅をして、やっとNYに戻って来た建築家Sが、「気合」と「愛」の参戦。来るすがら「アイス」迄買って来てくれました…感謝です。

昼食時には「今日、夕飯は要らないね」等と云っていたにも拘らず(笑)、秋を感じさせる涼しさに、結局何か暖かい物を食べようと云う事になり、都合7人でコリアン・タウンの「C」へ豆腐鍋を食べに…。筆者はと云えば、日に当った疲れと時差ボケで、最後の方は意識朦朧、大変失礼しました(ペコリ)。

そして「Labor Day」の祝日の筈だった昨日の月曜は、香港のVIP中国人クライアントが「朝10時から」屏風等を観たいと云う事で、休日出勤…もう、くたくたで有る。

週末の報告は此処迄と云う訳で、今日の話題は、昨日の朝、休日出勤前にYou-tubeで観た或る「映像」の事なのだが、その映像とは、本年度ヴェネチア・ビエンナーレ建築展で企画展示部門「金獅子賞」を獲った、石上純也氏のインタビュー(→http://www.google.co.jp/url?sa=t&source=video&cd=1&ved=0CDsQtwIwAA&url=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DU0nU9b_4yhc&ei=1pe0TdKxEc_dgQfg17xA&usg=AFQjCNFne2PW68Zgc_BQqOds5pAOZfvohg)。因みに今日は、少々辛口になります…悪しからず。

さてこのハンス・ウルリッヒ・オブリストに拠るインタビューだが、日曜日にブランチをしたM女史からその存在を知り、早速妻とYou-Tubeで観てみた。失礼を承知で云わせて貰えば、正直氏の英語に笑ってしまい、その後かなり複雑な感概を持った。

先ずハッキリ云って、あのインタビューに於ける石上氏の英語は、かなり酷い。芸術系の日本最高学府(個人的にはそう信じていないが、「と、云われている」と云う事)の芸大「修士」を出て、このレベルの英語なのか!と信じられない思いであった。

大汗を掻いて「アー、ウー」や「ソー(だからー)」、同じ話を際限無く繰り返すあの映像は、此方の子供達が見たら、きっと大笑いしてしまうに違いない。そして次に、この人は何故通訳をつけなかったのだろうか、と云う大きな「?」が頭に浮かんだ。建築家と云うよりは「アーティスト」に見える石上氏は、恐らく日本語ならばこんなにも簡単な質問には、きちんと答えられただろうと思うからである。

こう云った日本人の英語に拠る「ディザスター・スピーチ」を評する時に、良く「英語で話す様『努力した』」とか「作家として、英語で『話したい』と思ったのでは?」等と擁護する意見が居るが、正直限度と云うモノが有るし、しかし今回のインタビューで筆者が一番残念に思い、且つ恥ずべき事と思ったのは、世界の最高舞台で賞を獲った石上氏が、世界に発信されるインタビューに臨んでいるにも関わらず、自分の英語力の貧しさに全く気付いて居ないと云う事と、海外に於けるメディア・コミュニケーションとしての「インタビュー」と云う意味合いが、全く判っていない事だ。

それは、このインタビューに「通訳」が介在していない事で明らかで、氏が「自分の英会話能力は、このインタビューに充分耐え得る」と思ったとしか筆者には思えないのだが、如何だろうか。何故なら「英語が全く理解できず、喋れない人」は絶対に通訳を介在させるに違いないからである。また、もう一点の「インタビューの意味」と云うのは、インタビューを承諾した時点で、自分自身や自作品に関する背景説明をする「義務」が生じる訳で、そのビジネス・オブリゲーションを全く果たせていない(実際あのインタビューは、文法も滅茶苦茶で殆ど無意味である)と云う事である。

筆者はこの2点に関して強く憤慨するのだが、それは、百歩譲って石上氏が英語が下手でも、喋れなくとも別に宜しい。致命的なのは、ビエンナーレに出品する日本人建築家として、上記2点を「知らない」事…これぞ「井の中の蛙」の象徴なのだ。此処で氏を少し庇うならば、周りの人間達、特に妹島・西沢両氏等は、氏の事を長く知って居るのだろうから、一言と云うか、「君の英語力では、話にならないよ」と云ってあげるべきでは無かったか。

また、ビエンナーレから帰ってきた友人に因ると、氏の展示作品がほんの数日で壊れてしまい、審査員以外はその「展示」を観れず修復も出来ない侭、賞を取ってしまったらしい。もし自然災害無くして、例えば絵画で展示2日で絵具が剥落したり、彫刻が割れてしまったり、インスタレーションが倒壊してしまったりしたら、その制作(インスタレーション)の過程自体に問題が在ると思ってしまうのだが、何方かからその時の状況を詳しく教えて頂きたい…宜しくお願いします。「金獅子賞」受賞作品自体は、さぞかし素晴しかったのだろうから、インタビューの事も含めて、甚だ残念な「その後」になってしまった感が有るが、アートと建築の境界に挑戦する石上氏の「これから」に期待したい。

今回の件に代表される「英語の壁」の問題は、最近聞かれるユニクロ楽天での「社内公用語」にも関わる。英語学習を高1で止め、海外留学経験も一切無い筆者は、今勤めている英国企業に28歳で入社し、37歳でニューヨーク・オフィスに転勤、300人以上居るニューヨーク・オフィスの内では、現在唯一の「大学迄日本で出た、英語がネイティヴで無い日本人」なのだが(アメリカ生まれ・育ちは後3人程居る)、一言で云わせて貰えば、「日本語ネイティヴは、先ずきちんと日本語が話せるようになるべきで、英語はその後で充分、最も重要なビジネスの局面では『通訳』を付ければ宜しい」と思っている。

これは国際的文化相互理解と同様で、自国の文化を理解しない者に他国の文化など到底理解できないし、真っ当且つ根本的コミュニケーションは不可能である。こう云った事も考えず、目先の利益のみで安易に社内公用語を英語にしようとする、ユニクロ楽天は、本末転倒も甚だしいと思う。また、両社に真っ当な英語を話す社員がどれ位居るか知らないが、「日本英語」を社内で流通させた末にその社内英語が正しいと思って外国企業とディールする危険性を、両社は熟考すべきでは無いか…「塊より始めよ」である。

英語を学ぶ事など、現代国際ビジネスに携わっている者としては最低限・当然の事だが、「此処は自分の英語力では苦しい…こういう時こそ通訳を付けねば」と云ったビジネス的判断・決断力や、物事を理論建てて考え、他人に伝える術を国際的レベルで学びさえすれば、「英語の壁」等と云う物は存在しないに等しい、と思う。

我国に於けるリテラシーの低下や「ガラパゴス化」が叫ばれて、もう久しい。観念的に聴こえるかもしれないが、自戒を込めた筆者の実体験から云えば、海外で活躍しよう、世界を舞台に頑張ろうと云う日本人・企業に最も必要なのは、先ず世界の中での「今の自分の立ち位置」、つまり「己を知る」と云う事では無いだろうか。