校了、そして「蛮勇」の渇望。

やっと、カタログが校了した。

今回のカタログの表紙は、写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」で、これは写楽作品の中でも最も有名且つ入手困難な絵柄だが、今年東博で開催された「写楽展」図録の表紙と同じ作品で、東博図録との混同を狙った物である(笑)。

カタログの続きはと云うと、100ロット以上有る「エドソン・コレクション」の印籠・漆工芸品から始まり、今人気も値段も高い「柴田是真」のコーナー、明治の漆芸・七宝・金工・陶磁器を経て、茶道具と能面の個人コレクション、仏教美術から掛軸・屏風等の絵画、そして版画セクションに入ると「5点」の写楽の大首絵を含める版画セクション、そして近代陶芸と云う流れで日本美術が終わり、その後の韓国美術は、古画・陶磁器・近現代絵画と続いて終了…今から出来上がりが楽しみだ。

また今回はオーナーの了承を得て、出品される茶道具を用いての簡単な茶会を企画中で、これに就いては追って此処で報告をするが、9月9日から始まる下見会では、日本クラブ主宰の「下見会ツアー」も企画されて居るので、ご興味のある方は日本クラブ(212-581-2223:担当宮澤さん)迄ご連絡を。

そして報告と云えば、クリスティーズは本年11月の現代美術オークション期に、村上隆氏率いる「カイカイキキ」と組んで、東日本大震災救援のチャリティー・オークションの開催を発表した。

日時に就いては未定だが、出品される日本人アーティストは村上氏の他、奈良美智、Mr.、タカノ綾が予定されていて、当社副会長のBrett Gorvyもヤル気満々…このセールは冬に行なわれる「エリザベス・テーラー・コレクション」と共に、今年後半のクリスティーズ・ニューヨークの目玉セールになる事違い無しであろう!

さて昨日は、校了後の閑人の日常に戻り、昼は近所の大手建築会社KPFに勤めるK君とブライアント・パークでランチ。今回は仙台を含めた日本や中国各地を飛び回って来たK君と、湿気の無い夏の日差しの下近況報告をする。

その後一度オフィスに戻り、マーケティング部門との打ち合わせを済ますと、アッパー・イースト・サイドに赴き、友人の現代美術ディーラー、ファーガスの「McCaffrey Fine Art」へ「Robert Rosenkranz」展を観に。

このローゼンクランツと云う写真家は、「Delphi Financial Group」のCEOで、グッゲンハイムでアジア現代美術キュレーターをしている、元ジャパン・ソサエティ・ギャラリーのディレクター、アレキサンドラ・モンローの旦那さんでも有る、多才な人物である。今回の展示は、「Architecture」「Sea」「Shiraga Appropriation」シリーズからの出展で、作品の売上げ全てがイェール大学アート・ギャラリーの「アート・エデュケーション・ファンド」に寄付されると云う、所謂チャリティー企画であるらしい。

展示は、入り口正面に飾られたレム・コールハースとフランク・ゲーリーの建築を撮影した作品から始まる。白髪一雄の作品のディテールを撮影し作品にした作品、そしてクロイスターズ等の「建築」や「波」をセピア加工で表現した作品が並び、クラシックな雰囲気と現代性のマッチした展覧であった。

その夜は夜で、イースト・ヴィレッジの「嘉日」を再訪し、METの刀剣・甲冑の専門家であるO氏と久々の食事をご一緒する。

O氏は、一昨年METで開催された歴史に残る大展覧会「Art of Samurai」を15年掛けて実現された方で、筆者が公私共にお世話に為っている、古き強き「ニッポン」のオーラ全開の方だ。

食事中は2人で日本の政治の現状を嘆き続けたが、O氏が断言された様に「日本の将来等と云う物は、ハッキリ云ってもう存在せず、世界での影響力の有るポジションも、絶対的に復権出来無い」と諦めながらも、唯一の望みである、小役人根性の全く無い、そして保身ばかり図るような貧乏性でも無い、「蛮勇な人間」に拠る或る意味「テロ的」な革命を願い続けた。

その反面、「嘉日」の月替わりの料理は相変わらず素晴らしく、夏らしい涼しげな料理の連続で、流石のO氏も西原シェフの作る逸品の数々の味や素材、延いては「カウンター」に使用された木材まで絶賛…お連れした甲斐が有ったという物だ。

家に戻ると、日本に居る見識有る或る友人が、「久し振りに、人が怒っている姿に感銘を受けた」と云って送ってくれた、衆院厚労委員会での東大の児玉龍介氏の激烈なる演説をYouTubeで観る。そして、この怒り満ちた「報告」は、筆者に仄かな期待を持たせてくれる程、正論且つ「蛮勇」で有ったのだ。

そしてこの映像を見て分かった事は、この期に及んで正しく今の日本人に必要な事で、それは、日本人の特性として世界に知れ渡った「羊の様な優しさ」や「礼儀正しさ」等では無く、知的で蛮勇な言動であると云う事である。

我々は、「蛮勇」を渇望しているのだ。