凛とした、「第二回満次郎の会」@宝生能楽堂。

昨日、香港から戻って来た。

剰りに威勢の良い中国に圧倒された、香港での日々の後、極度の精神的疲労を感じながら機上の人と為った訳だが、しかし到着迄後1時間と云う所で、何気無く機窓から見た富士山の、「凛」とした、そして静かにドッシリと力強く佇む孤高の姿を見たら、「あぁ、日本はこう有るべきなのだ…」と、極く自然に感じてしまった。

日本国が、そして日本人がこの富士山の様に、世界の中で、泰然と「凛」とし孤高で居られれば、一番素晴らしいのではないか。そうなれる様に、自らを精神的に鍛えねば為らない…頑張らねば!

そして、成田(羽田便は、日本到着が遅いのである)から略その足で、「第二回満次郎の会」を観に、水道橋の宝生能楽堂に駆け付ける。

この「満次郎の会」は、日頃親しくお付き合いをさせて頂いている、シテ方宝生流能楽師、辰巳満次郎師の個人会。記念すべき第一回は昨年同日、満次郎さんは「邯鄲・傘之出」を舞われたのだが(拙ダイアリー:「祝!『第一回満次郎の会』」参照)、第二回の今年は昼夜二回の公演、夜の部は観世流からシテ方の観世善正師を招いての「一調一管」や、宝生流重鎮達の仕舞、周りを固める狂言方囃子方も実力派揃い…そして満次郎さんは、「海女」を舞う事に為っている。

成田から、神保町に荷物だけ置きに帰り、開演ギリギリに能楽堂に到着。待ち合わせていた友人、某化粧品会社のCDのA氏と席に着くと、会場は略満席、隣には今回チケットをプレゼントした両親、その隣には旧知の彫刻家、薮内佐斗司先生のお顔も見える。

開演し、先ずは満次郎さんのご挨拶。通常シテ方は面を着けて舞台に出、そのまま引っ込んでしまうので、パンフレットが有ったとしても、能役者が実際どんな顔をしているか、況してや普段どんな話し方をするのか、まるで見えない場合が多い。その点この「トーク」は、観客をリラックスさせる意味も含めて、非常に良い企画だと改めて思った。
増田正造氏の解説に続き、お仕舞いが二番、狂言は九世野村万蔵師の「清水」、そして観世善正、小鼓大倉流十六世宗家大倉源次郎、笛方十一世藤田流宗家藤田六郎兵衛各師に依る「一調一管」、「安宅」である。

結果から云えばこの「安宅」は、筆者のみならず、数多の名人の舞台を観て舞ってきた、「能病」歴60年の辛口両親ですら息を飲んだ程、緊張感に充ち、本当に素晴らしかったのである!能の囃子の醍醐味と極み、「安宅」と云う緊迫した曲を、小鼓と笛の2人の宗家がせめぎ合う事に因って調子がドンドン上がり、それに引っ張られるかの様に、善正師の謡も力強さを増す…流石家元!と思わせる、稀に見る物凄い舞台であった。
その「一調一管」の興奮も冷め遣らぬ侭、近藤乾之助師の仕舞「采女」が続き暫し休憩、そして愈々我らが満次郎さんの出番である。

今回の「海女」には、「懐中之舞」と云う小書が付いていて、これは、実は大臣の母である海女である前シテが、龍宮に盗られた宝珠を自分が取り戻して果てたと云う場面を、大臣の前で再現すると云う「玉の段」を、床几に座った侭舞うと云う、一見座っているので楽な様に見えるが、体力的にもかなりハードな演出なのだ。

大臣藤原房前(ふさざき)は、讃岐国志度の浦で亡くなったと云う、会った事の無い母親の十三回忌の為に、其地を訪ねる。其処で一人の海女から聞いた昔話は、唐の時代、淡海公の妹が高宗皇帝に嫁いだ時、我が国に3つの宝が渡ったのだが、其の内の一つの釈迦の像が浮かぶ「面向不背の玉」を、沖の龍神が盗ったが、淡海公が海女と契り、玉を取り戻した、と云う物である。そして大臣の所望に拠って、その「玉取り」を再現した海女は、遂には自分がこそが大臣の母であると告げ、海中に消える。

中入り後、後場で大臣が母を手厚く弔うと、母は龍女の姿で現れ、法華経の功徳を讃える「早舞」で成仏する、と云うのが「海女」のストーリーである。

そして満次郎さんはと云うと、子に対する母の愛、そして人間から異物(龍女)に為ってしまった悲しみを、非常に味の有る「泥眼」の面を付けて見事に表現され、特に後場の龍女の「早舞」が素晴らしく、変な云い方になるが、この「凛とした」龍女が本当に最初に挨拶をした、あの大柄で強面の男なのか?と思う程の出来で有ったのだ!

こうして「第二回満次郎の会」も無事終了。打ち上げは弟の店「神田いるさ」にて、満次郎さん、その美しい奥様とご子息、源次郎先生、大鼓の安福光雄さん、野村万蔵さん等、総勢30名程の方々と夜中過ぎ迄御一緒させて頂いた。

香港から水道橋迄、文字通りの駈け足であったが、富士山と満次郎さんの「凛」とした姿に、疲れも吹き飛んで行った1日でした!