雪の日には、ラヴェルを聴きながら。

予報通り、雪がしんしんと降り続く金曜の朝、痛い腰を引き摺りながら妻の付き添いの下、鍼治療に出かけた。

2日続けて「人生初の」鍼治療を受けているのだが、ミャンマー出身の、袈裟でも着せれば即僧侶に為れそうなK先生は中々の腕の様で、痛みも和らぎ動ける様に為って来た…東洋医学恐るべし、で有る。

家に戻った後は当然安静にしていたのだが、Blackberryに絶え間無く入ってくるメールや査定依頼に答えたりで、気は休まらない。しかしこんな静かな雪の日の午後は、ブラインドを全開にし、ロフトの大きな窓一杯に降り落ちる雪を、そして雪間に飛ぶ海鳥達を眺め、雪の日には此れ以上無い程ピッタリな「ラヴェル」のピアノ曲を聴きながら、一昨年此れも日本出張から帰った直後に腰を痛めた際に認めた「寝たきり男の濫読」のパートIIとして、最近読了した印象的な本の事を記そうと思う…しかしこの忙しい時期に、参った参った(嘆)。


梅若玄祥六郎著「梅若六郎家の至芸−評伝と玄祥語り」(淡交社

当代きっての名人の呼び声高い、能楽シテ方観世流、五十六世梅若六郎玄祥師に拠る、梅若家の歴史と先代・先々代に関する評伝、そして当代の芸談を含む本である。光明皇后の異父兄である橘諸兄(たちばなのもろえ)を始祖とする伝承を持つ梅若家の歴史は、元来丹波猿楽でありながら、室町末期に大和猿楽に再編され、江戸期には観世座のツレ家であった経緯を持ち、そのまま猿楽・能楽の歴史と云っても過言では無い。

梅若家の歴史や、近代能楽に重要な足跡を残した先代・先々代の事も印象深いが、最も興味深いのはやはり玄祥師本人に就いてである。師の特に「蔓物」に見る舞の大きさとふくよかさ、そして艶っぽさは他に比肩する者は無い。最近太られて、座る事が難しくなった様なのが残念だが、例えば「道成寺」の後シテがシテ柱に絡み付き、祈祷する僧侶をキッと睨む所等、梅若の家の芸の特徴でも有るらしい或る意味歌舞伎的な所作で、天才とも云われる、ご子息で歌舞伎舞踊振付師の藤間勘十郎氏のその才も、然も有らんと思う程に色っぽいのである。

こう云った玄祥師の芸の基に有るのは何か、その伝統を守る芸と新作能に見る改新の芸、そして「結局能で大切なのは、型とか細部とかそういうものだと思います」と語る、梅若家の芸の核心に迫る事の出来る好著である。


平野啓一郎著「かたちだけの愛」(中央公論新社

「ドーン」以来の平野氏の新作は、読売新聞夕刊に一年間に渡り連載された「恋愛小説」。近作の「決壊」「ドーン」と現代・近未来を舞台とし、人間の孤独や自己と他者、分人主義等を描いてきた著者が今回選んだテーマは、「愛」であった。

新聞連載小説と云う事も有るのかも知れないが、舞台設定・登場人物も非常に身近で、或る意味「我が身にも起きるのでは?」と思う程の日常的シチュエーションに隠される「愛のかたち」達…主人公と片足を失った女優、主人公と死んだ母親、主人公と父親、女優とそのマネージャー、女優と元彼、そして肉体と心、延いては「利他」と「利己」と云った様々な「愛のかたち」が読者に示され、タペストリーの様に織り成された後、祝福されるべき大団円が待つ。

作中特に好きな部分があって、一つは主人公が女優に「この世の全てを見ることなんて、絶対に出来ない。誰にだって光の当たっている部分とそうでない部分がある…」と云う台詞、そしてもう一つは、最後に女優が「生きててよかった。」と云う場面である。「陰」無くしては「光」無し、ゴダール風に云えば「光が有るのは、そこに陰が有るからだ」…平野氏の作品は人間の「陰」を明るみに出すが、必ず最終的に「希望」や「生の慶び」が描かれ、其処に何時も感動するのだ。

またこの作品の中で、後で記すラヴェルの「ピアノ協奏曲」が重要なテーマとして使われている事を補足しておこう。


狩野博幸著「江戸絵画の不都合な真実」(筑摩選書)

日本美術史界の「無頼派」狩野先生に拠る、辻維雄氏の名著「奇想の系譜」へのオマージュとも云える新著。

岩佐又兵衛、英一蝶、伊藤若冲曾我蕭白長沢芦雪、岸駒、北斎写楽と「江戸期奇才画家」達を集め、最新の学術的成果を織り交ぜながら読ませる、非常に面白い著作である。また何を隠そう、筆者もこの本の冒頭カラー図版を飾る新出の又兵衛作「業平東下り図」掛幅を、日本某所で拝見したばかりであったので、何ともタイミングも良かった。

若冲が、実は「ヤル時にはヤル」タイプのスーパー・ビジネスマンだった事や、北斎の「富嶽三十六景」誕生の秘密、芦雪の死や写楽「第三期」の画風の違いの謎等、日本美術のプロ以外の人が読んでも大変面白いに違いない。「語り部」としても才溢れる狩野先生の、流石の一冊であった。


そんなこんなで、夜は久々にチェルシーの「B」でA姫&P王子と「新年おめでとう」ディナー。高田シェフの料理に皆で舌鼓を打ったが、次回のダイアリーも「濫読」に為りそうだ…(嘆)。

最後に、雪が降りしきる中、このダイアリーを書いている間に聴いていたラヴェルの曲を紹介して、今日はお終い…雪の日のラヴェル、「至福」である。


モーリス・ラヴェル
・逝ける(亡き)王女の為のパヴァーヌ
・水の戯れ
・古風なメヌエット
・鏡(I-V)
ソナチネ(I-III)
ハイドンの名によるメヌエット (以上、ピアノ:サンソン・フランソワ
組曲マ・メール・ロア」(四手の為の) (ピアノ:サンソン・フランソワ、ピエール・バルビゼ)
・左手のためのピアノ協奏曲
・ピアノ協奏曲ト長調 (以上、ピアノ:ピエール=ロラン・エマール、ブーレーズ指揮:クリーヴランド交響楽団
・鏡(I-V) (ピアノ:ピエール=ロラン・エマール)