「大きな敵」と祈り。

昨日は、時差ボケがきつく風邪気味だった事も有って、「ステーキ丼」を食べた後、9時過ぎには床に就いていた。

そして深夜2時頃、喉がヒリヒリに渇いたので、起きて水を飲み、戻って来て何気なくブラックベリーを見ると、新しいメールの到着を示す「赤ランプ」が点滅していたので、「寝なければ」と思ったのだが仕方無く見てみると、東京の弟からの「皆、無事だ」と題されたメールが…何の事かと思い開けて見ると、腰を抜かさんばかりに驚いた。そして妻を叩き起こし、テレビを付け、CNBCにチャンネルを合わせると、其処には衝撃の映像が…。

それは、車や船、燃え盛る家屋を物凄い力で押し流しながら、田畑や街を破壊しながら進む「津波」であった。

先日ニューヨークに帰ってくる機内で、イーストウッドの「ヒアアフター」を観、その「津波」シーンのリアルさに驚きたじろいだばかりだったので、この現実の映像も何処か「デジャ・ヴュ」の様な感覚で、暫く茫然自失…こんな事が、今実際に日本で起きているとは!急いで東京の実家に電話を掛けるが、全く繋がらず焦る。10回目くらいでやっと繋がり、老夫婦が無事で有る事を確認、ホッとしたのも束の間、それからは仙台に住む従妹(未だ連絡が付かない)や、親しい友人Aちゃんの親御さんの事等を案じながら、出社時間迄TVに齧り付いていた。

従妹を含め、被災された方のご無事と、亡くなられた方のご冥福、余震等による二次災害からの安全を祈るばかりであるが、今筆者が一番恐ろしく思っている事の一つは、実は「福島原発」の故障で、これは明らかに「人災」だからである。常々思っているのだが、これだけ地震の多い国日本で、「原発」に100%安全等と云う事は「絶対に」有り得ない。

原発」に関するレトリックはもう耳タコであるし、その必要性も理解はするが、世界唯一の被爆国の癖に、そしてチェルノブイリの惨状を知っている癖に、何故これ程迄「原発」に拘るのかが理解出来ない。火力・水力・風力各発電で電気が足りないならば、国民一丸と為って節電すれば良い。若しくは、新しいエコ・エネルギーを考え出せば良い…それが日本人たる者の知恵の見せ所なのでは無いか。これを機に日本国は、今一度「原発」の存在その物を見直すべきと思う。

そしてもう一つ、古来「人心」と「自然」は連動していると云われる。アフリカや中東の大混乱、ニュージーランド地震、世界的な大雪、静岡県の水の温度上昇…こう云う時は本当に気を付けねばならない。そしてそれを乗り切る方法は、人心を一つにして、自然を敬いつつ闘う事だ。人間同士で小さな内輪揉めしている場合では無い。

政局ばかりに関心を払う日本の政治家も、これを機に、挙国一致体制でこの国家としての、最悪事態を乗り切るしか無い。因みに、近代日本に於ける犯罪発生率が最も低かった時代は、何時かご存知だろうか?それは、「第二次世界大戦の最中」なのである。共通の「大きな敵」に立ち向かっている時は、内輪で揉めたり獲り合ったりする暇は無いと云う事だ。

そう考えると自然とは、被る災害を考えると誠に「大きな敵」の様だが、実は節々で我々人類に、最も大事な事を気付かせてくれる「母」でもある。恐らく10000人を越える犠牲者を出すであろう今回の地震津波から、日本と日本人が何を学ぶかが、最も重要な事であり、それが犠牲になった方々を弔う為の唯一の「道」だと思う。

そしてその「道」とは、この国内・国外に於ける政治的・社会的・経済的、そして世界的困難な状況の時こそ、我々日本人は「原発」の存在を含め、今我々に取って何が最も重要で、最も必要なのかを、根本に帰って考えると云う事ではないだろうか。

今日、一体何人の同僚や友人から直接、また電話やメールで「君の家族は大丈夫か?」と聞かれた事だろう…その優しい言葉の数々を噛み締めていたが、今、今度は新潟を震源とする震度6の地震が起きた事を知った。

今ニューヨークに居て出来る事と云えば、家族と日本国民の無事を、ただただ祈る事のみである。