失ったからこそ、得る物:橋本真奈@Tenri Cultural Institute。

昨晩は、先週に行ったライヴ(拙ダイアリー:「面影:『Himizukaze-Rebirth』@Tenri Cultural Institute」参照)に出演する筈で有ったが、飛行機の都合で急遽休演と為ったダンサー、橋本真奈をフィーチャーした同名のパーフォーマンスに、再び足を運んだ。

この橋本真奈と云うモダン・ダンサーは、バイオグラフィーに拠ると3歳からクラシック・バレエを始め、1993年にバークレー音楽院に学んだ後、'98年にニューヨークに移り、マーサ・グラハムのスクールとクイーンズ・カレッジでコンテンポラリー・ダンスを学んだが、その直後視神経の病気に因り視界を完全に失った。

そう、橋本真奈は「盲目のダンサー」なのだ。

10ドルの入場料が全て被災者救援に充てられるこのステージは、前回同様「追慕歌」から始まったが、今回は場内の照明が落とされて蝋燭が点され、雅楽龍笛の調と共に、橋本がキャンドルを大事そうに両手で抱えて登場する。そしてその侭、橋本に拠る詩の朗読パフォーマンス「暗い夜」がその僅かな灯火と共に行われ、会場は「鎮魂」の相を濃くし悲しみに包まれた。

朗読後は、前回と同様に「越天楽」「蘭陵」と雅楽演奏が続くが、その間に橋本の「舞」が入り、オカルトめいて聞えるかも知れないが、橋本が舞う度に「寄代」化する事に因って、魂達が集まるが如くステージは段々と神懸り、驚きと共に筆者はその時気付いたのだ…この盲目のダンサーは「巫女」なのだと。

そうして「暗い夜」のパートII、IIIと続く内に、橋本のもがく様な体の動きと「生きてさえいれば」と繰り返される台詞に、筆者の胸は締め付けられ続けられ、この晩一番のダンス・パフォーマンス「Iki(息)」が始まった。

橋本が登場し、白の伸縮性の有るシーツの様な布で全身を覆い、まるで「蚕」の様に床に蹲まり静止すると、奥のホワイト・ウォールに映像が映し出される。今回のこのパフォーマンスは、Yoko Takebe氏の橋本を題材としたフィルム・アートとのコラボレーションと為っており、そのフィルムは、金魚鉢の中の魚の「呼吸」から始まり、砂浜で歩く橋本の足元や金魚鉢に映り込む橋本の影等を映し出す。

この「息」と云う素晴らしい作品は、単純では有るが、人間が生きていく為に最低限欠かす事の出来ない「呼吸」と云う行為にスポットを当て、その最もミニマルとも云えるこの行為は、魚にも蚕にも共通する「生」の根源的活動であると云うコンセプトの作品で、蚕と為っていた橋本が徐に動き出し、そしてそれは生命の誕生をも予感させ、その布から出た橋本は、その生を謳歌するが如く舞うのだ。

正しくこの「息」と云うパフォーマンスの完成度は非常に高く、実に感動的であった!床に貼られたマスキング・テープだけを頼りに、位置を掴みながら踊る橋本とTakebeの映像は本当に美しく、豊かに為り過ぎた人間に取って判っていた筈の、しかし忘れがちな、一体何が一番大切なものか、必要不可欠なものかを確りと教えてくれたのだ。

観客の間に漂う「息」の感動が抜け切れない侭、橋本は最後のパフォーマンスでは、太鼓や笛の荒々しい調と共に「米」を播きながら舞い、さながら古代日本に於ける「田楽」の発生とは、こう云った「神の寄代に為りうる、盲目等の異形の者に拠る、五穀豊穣の舞」では無かったかと思わせる程の驚きを以って、公演は幕を閉じた。

さて今回、この稀なる素晴らしいパフォーマンスを観て、筆者が強く思った事が2つある。

1つは、人間は「記憶」に拠って生きる事が可能であると云う事。橋本のパフォーマンスには、生まれついての盲目では無い、良くも悪しくも「眼の記憶」が溢れている様に思う。恐らく子供の時に見たであろう綺麗な海や花、流れる雲や水、失明する迄見た母の顔や恋人の顔…もう見る事の出来ない、しかし、何時でも見る事の出来る「眼の記憶」を持つ者は、それを支えとして独自の芸術を創造する事が可能となるのでは無いか。

そしてもう1点は、人間に取って「リスク」と呼べる物は、唯一「命」だけだと云う事だ。

その意味で「原発推進派」の人々は、完全に間違っている。豊かな生活、何不自由の無い日常など「命」とは比べ物にならないからで、盲目のダンサー橋本が「暗い夜」で繰り返し呟く「生きてさえいれば…」の台詞は、大きなもの(橋本に取っては「視覚」)を失った者ならではの叫びで有り、その声に耳を傾けられない者は、「命」を粗末にする者である。「電気」と「命」の重さを秤に載せねば判らない者、そして載せても「電気」と「生活水準」の方が大事だと云う者は、己が直ちに原発の隣に越すが良い。

橋本は視覚を失った代わりに、盲目だからこそ為し得るパフォーマンスを創造していると思う。人生は全てプラス・マイナス・ゼロ…失ったものが大きい程、得るものが大きい事も有るが、それを得るには先ず失ったと云う事を受け入れる事、そして人間として強くなる事である…この点、女性の方が男性よりも強くなれる可能性が高いと思うのは、筆者だけだろうか。

昨晩の橋本真奈のパフォーマンスは、それを裏付け、信じさせるに余り有る程素晴らしかった。

この度、日本は多くの「命」を失った。しかし先程までESPNの画面に噛り付いて、「なでしこJAPAN」が延長残り数分で追いついた時、そして奇跡のPK戦勝利の瞬間に涙した筆者が見た彼女達の「粘り」と「諦めない強さ」は、いみじくも日本の「失ったからこそ、得た強さ」を全世界に向けて宣言したと思う。

日本の真の復興は、「女性」の力からかも知れない。