「葵上」@Japan Society。

オークションが無事終わり、やっと肩の力が抜けた感じがする。

1日経っても、大成功したセールへのお祝いの声は止まず、有り難い。これでこれから、微力ながら関わっている募金箱キャンペーンや、チャリティー・コンサート等のボランティア活動の方にも、力を入れられると云う物だ。

さて昨晩は、ジャパン・ソサエティで開催されたお能を観に行った。演ずるは、京都観世流シテ方の片山伸吾を中心とする、「花習塾」と名付けられた能楽師のグループで、演目は舞囃子屋島」、狂言「棒縛」、そして能「葵上」の3曲である。

簡易化された能舞台を擁する会場は、略外国人で満員、聞く所によると3日間の公演は全てSold outとの事、人気の程が伺える。そして「屋島」がスタートした。舞うは梅若猶義、若さ溢れる舞と思ったが少々硬かったか…。

次の「棒縛」は、現代的演出も加えた如何にもの茂山狂言で、演じるは茂山逸平の「次郎冠者」と茂山童子の「太郎冠者」。これは久々に、そして中々に面白い狂言で、笑わせて頂いた。茂山狂言は、云ってしまえば妙に肩の力の抜けた「吉本」のノリの様なモノが有って、例えば東京で観る狂言と比べると、その枠からはみ出た「可笑しみ」がある。

そしてインターミッションの後は、愈々「葵上」の上演。

出演者は、シテの「六条御息所の霊」に片山伸吾、ツレの「照日の巫女」に田茂井廣道、ワキの横川小聖に原大と云った顔触れ。この「葵上」は世阿弥改作の曲で、朱雀院に仕える臣下が葵上の病状を知る為に、巫女に梓の法を行わせると、弓の音に引かれて貴婦人が登場する。

さめざめと泣いている女に名を聞くと、六条御息所の霊だと名乗り、光源氏の愛を奪った葵上に対する恨み辛みを述べる。恨みを述べる内に激昂した女は、葵上の枕元に進み打ち据えたりするが、呪いの言葉を残して立ち去る。中入り後、葵上の様態が急変し、祈祷の山伏が呼ばれ、御息所の霊は鬼相に変え登場し戦うが、遂には祈り伏せられてしまう、と云う話である。

この曲には大好きな所が2箇所有って、それは先ず、曲が始まる前に「小袖」が一重(ひとかさね)運ばれ、舞台前方に置かれる事…これは病気で横たわる「葵上」を、小袖で表しているのである!最初にこの「葵上」を観た時には、何と云う演出だろうかと驚愕した物だ。

そして二つ目は、この曲の始まりに有る「照日」の謡である。この照日の謡は、通常の謡と曲調が全く異なり、それは巫女が憑依祈祷を行うシーンだからなのだが、これがまた何とも云えぬ謡なので、艶っぽくも有り、妖しくも有り、あぁ…と溜息が出てしまう程の、恐るべき謡なのだ!この「葵上」と云う曲は、これが無くては始まらない。今回のツレの謡は、中々良かった様に思う。

シテは「泥眼」と思しき作の良い面を付けて登場、しかしこれは好き好きだと思うが、京都のお能は時折たおやか過ぎて、筆者には物足り無く感じる…男が「男」をひた隠しに隠して「女」に為るのが「能」だと思うからで、上手く云え無いが男が舞っていたとしても、「女」が「女」を舞っている様に見えてはいけない、と思うからである。

しかし、こう云った催しがニューヨークに来るのは重要で、公演後のレセプションも多くのニューヨーカー達が能楽師達と語らっていた。レセプションでは、今回の公演に参加している能楽師の中に、元能楽師だった妻が昔の知り合いを見つけ、筆者としてはその人に妻が常々口にする「私は嘗て能楽界のマドンナだった」話を確認しようと思ったのだが、この晩のお能の教訓は、「女性を怒らせると、呪われる」と云う事だったので、やはり止め置く事にした(笑)。

さあ、やっと待ちに待った週末である。