「Gilbert & George」と、「The Stone」再び。

小沢一郎氏が無罪に為った。

こんな事は当ったり前の話だが、しかし万万が一有罪に為る様な事が有れば、民主主義・法治国家を謳う我が日本国は本当にオシマイだと思っていたから、安堵した事も否めない。しかし、この3年にも及ぶ時間と金の無駄、そして「検察審査会」なる全く以て民主主義を汚す様な制度や組織の責任は、一体誰が取るので有ろうか。

その上自民党等は、無罪に為った人間に対して「説明責任」との理由で、証人喚問等と抜かしている…肝心な事の責任は、誰も取らないで揚げ足取りに終始する日本の政治は、本当に嘆かわしい限りだ。

さて、ゲル妻のパフォーマンスの興奮覚めやらぬ昨日の夜は(実際公演後、一緒に打ち上げに行った友人の何人かは、「般若面」を忘れられず、中々寝付けなかったそうだ:笑)、先ずはチェルシーで開かれた、お目当てのギャラリー・オープニングへと向かった。

そのお目当ての展覧会とは、大好きなアーティストGilbert & Georgeに拠る「London Paintings」@Lehman Maupin。

ギャラリーに行ってみると、何時ものスーツ姿に身を固めたアーティスト御本人達が、丁度到着した所…見た所大分年を召されて来たが、元気そうだった2人の新作は、彼らがアルファベティカルに抽出した単語に関連する「ロンドン三面記事的ニュース」を題材とした、相変わらずシニカル且つ「ブレ」の無い、パワフルでストレートな作品群で有った(因みに筆者が一番欲しかったのは、「Addicted」だった!:笑)。

チェルシーでは、後で観に行ったSonnabendでも同作品展が開催されていて(そして、ロウワー・イースト・サイドのLehman Maupinでも)、ゲル妻と「オープニングの日には、ギルバートとジョージが別々に画廊を廻ったらどうだろうか?」等とも考えたが、彼らはやはり「2人で1人」なアーティストで有るし、もし1人だったら、レセプションで会っても誰だか分からないかも知れない(笑)、と思い直す。

「G&G」の作品満喫後は、Paceでのオルデンバーグ展を観て(Tさん、カタログを有り難うごさいました!)、その後は今週3度目の「The Stone」へ。

昨夜のセッションは「坂本龍一&にしなあや」に拠る、2セットコラボ。会場に着くと、ピアノが1台とその後ろにスクリーンが2面設置され、後はラップトップのみ…2人はこの1台のピアノを共有すると云う。そしてこの晩のもう1つの目玉は、そのスクリーンに映し出される、写真家武田慎平に拠るヴィデオ・アートで有った。

そしてライヴが始まると、教授とにしなは武田の映像とサンプリングをバックにピアノを連弾し、叩き、弦を爪弾き、ラップトップに記録された音源を選び、透明感の有る繊細な「音の音楽」を紡ぎ出す。

さて、今回の「Ryuichi Sakamoto Curates」シリーズの最大のコンセプトは、12セットのライヴが全て「即興演奏」で有る所だが、昨晩2人の背後に映し出された武田の映像も、驚くべき事に「インプロヴァイゼイション」で有ったのだ。

客席の片隅に「仕事場」を設えた武田は、小さな水槽に水を貯め、其処に炭酸水や塩を入れ、水槽を揺らしたりして起きるその反応を、当てる光の向きや強さを操作しながら、ヴィデオ・カメラで捉えてスクリーンへと送る。

そして、スクリーンに浮かんでは消えて行くその映像は、何とも云えぬ柔らかさと有機的な動きを持ちながらも、何故か筆者には「陰影礼賛」的な日没や星の流れ、焼ける大地等の心の「原風景」を想起させ、流れる優しい音楽と混ざり合って何処か懐かしい気分にさせた。

武田に拠って「ライヴ」で創られる美しい映像と、にしなと教授の紡ぐ音は時に複雑に、時にはさらりと絡み合ってThe Stoneの満員の観衆を魅了し、あっと云う間に時間は過ぎ去って行った…が、1点だけ難しかったのは、教授、にしな、武田、そしてサンプリング・アーティストの4者の関連必要性と「完成形」の想定が筆者には余りクリアで無かった事で、それは若しかしたら今回の「パフォーミング・コンテクスト」が、(筆者に取っては)多過ぎたからなのかも知れない。

しかし昨晩のパフォーマンスは教授も然る事ながら、にしなあや、武田慎平と云う2人の若いアーティストの才能を堪能出来た、初々しいパフォーマンスで有った。

あやちゃん、慎平くん、お疲れ様でした!