最後の一拍。

7月30日。

と云う日が、例えばヴァザーリやヘンリー・ムーアの誕生日だったり、谷崎やアントニオーニが死んだ日だったりする事を知っている人は、世の中にどれ位居るのだろう…況してや私の誕生日だと云う事など。

48。

と云う数字に、何か特別な意味が有る訳でも無いが、12年の「周期」が4廻りした、と云う感覚も無いでは無い。

私は今日、2011年7月30日、48歳に為った。

子供の頃から、常に死の恐怖に怯えていた。この胸の左側で張り裂けそうに打つ心臓が、寝ている間に、私の知らぬ間に止まってしまうのでは無いか…。小学生の頃、或る日、家で祖母が医者に脈を取られながら逝ったのを、信じられない思いで眺めた時の様に。大学生の時、病室で一人、重篤な状態の叔父の手を握って話し掛け続けて居た時、突然叔父の体が痙攣し逝ってしまった時の様に。

しかしその死の恐怖は、実際に人間の死の瞬間を見る事に因って少しずつ薄れて行ったのだが、物心付いて以来、一時たりとも死を忘れた事は無かった。

平均寿命を考えると、私の人生はとうに半分以上を過ぎている。しかし「寿命」とは一体何だろう?人生の長さに、意味等有るのだろうか?

私は毎朝、寝起きの悪い「夢見」の妻に、前の晩に彼女が見た夢を聞く事を日課としている。つい数日前の事だ…妻にどんな夢を見たか尋ねると、妻は夢現の状態でこう答えた。

「私、人生の意味が判ったの。」「ほう?」「あのね、心臓が一回でも打ったら、その人はもう人生を生きたって事。だから、心拍の一回一回が人生って事なの。」

そう、私の人生とは、私の心臓の一拍一拍なのだ。人生の長さ等に意味は無い…人生の本当の意味、目的とは、その人の心臓の最初の一拍から「最後の一拍」を打つ迄、生き抜く事だ。そして、その「最後の一拍」の訪れは、誰にも予想出来ない。忘れてはならない…死は観念では無く、肉体の問題なので有る。

私の心臓は、此れから先何回打つか判らないが、何をどんなに望んでも、「最後の一拍」は必ず、誰にも公平にやって来る。だからこそ、人生そのもので有る心臓の、「最後の一拍」迄後悔しない様に生きる事しか、私の出来る事は無い。況してや、自分で自分の鼓動を止めたり、他人の鼓動を止める等、決して許される事では無い。

子供の頃、最もホッとする瞬間は、朝起きて胸に手をやり、自分の心臓が動いている事を確認した時で、それが「生きている証」であった。

そして今朝、起きて左胸に手をやると、幸いにも私の心臓は未だ動いていた。その事実を確認すると、両親に感謝し、妻や弟、友人達や神仏に感謝をした後、徐に人生49年目の第一日目を、私は私の心臓と共に歩み始めた。

私の心臓は、これからも打ち続けて行く…何時の日か「最後の一拍」が訪れる迄。