一神教的「別離」と「選択」:"A Separation".

夜とも為るとめっきり寒くなったニューヨークも、秋恒例の映画祭「The 49th New York Film Festival」がリンカーン・センターで始まった。

今回のフェスティヴァル・ラインナップは例年以上に素晴らしい物で、監督もアルモドヴァルやヴェンダース、クローネンバーグやポランスキー、スコセッシ等、内容もジョージ・ハリソンやパリのキャバレー「Crazy Horse」を扱ったドキュメンタリーや、ロマンポルノを含む日活全盛期の38本が一挙公開される等、バラエティに富んだ必見のイヴェントである。

そんな中、今回筆者がその第一弾として昨夜観た作品が、イラン映画の「A Separation」で有った。

この作品の監督はイラン出身のアスガル・ファルハーティ、今年のベルリン国際映画祭で「金熊賞」「銀熊賞(男優・女優)」を独占した話題作である。

会場のAlice Tully Hallに着くと、映画祭らしく如何にも華やかな人々で溢れ、イラン映画と云うシブい作品にも拘らず劇場内も超満員で、流石ニューヨークと云う雰囲気。

「A Separation」は、イラン中流階級の或る家族の物語。娘の将来とより良い生活を求めてイランを出ようとする妻と、アルツハイマーの父親(これぞ当に、今のイランを象徴しているのだろう)の為に残ると云う夫との間での離婚話がメインだが、其処に色々な「イラン的日常」の事件が重なり、家族は数々の「選択」と「別離」を迫られると云う話である。

さて、映画の内容をこれ以上此処で語る事は控えるが、この作品を観ると、21世紀のイランと云う国家での日常を知る事が出来るし、その社会が今でも男性社会且つ、「コーラン」と云う一神教の絶対的存在に拠って動かされている事が理解出来る。

この「一神教の絶対的な存在」は、幸か不幸か我が国には存在しない…日本人で「法華経」や「天津祝詞」に手を置いて、「私は神仏の前で、嘘は吐けない」と涙する者など居ないで有ろうから。

しかし今の日本には、若しかしたら、この「絶対なる正義」の様な物が必要なのかも知れない、とこの作品を観て強く感じた。それは、元来日本人として多神教と親しんで来た我々に取っては、「絶対的正義」は「外側」には存在せず、我々自身の精神と心の内にしか存在しないが故に、自分自身が行う正義決定に規範と自信が無ければ、今の日本人の殆どが残念ながらそうしている様に、「政治家」や「東電」の名を借りて、簡単に「人の所為」にしてしまうからで有る。

上映後にはファルハーティ監督が登壇し、トークを行った。映画の最後のシーンで、結局離婚する事に為った両親のどちらに君は付いて行くのか、と裁判所の判事が11歳の娘に尋ねるシーンが有り、しかし映画はその答えを観客に知らせずに終わるのだが、或る質問者が「実際、娘はどちらを選択したのか?」と監督に尋ねた。

監督の答えは流石に明快で、「イランの次の若い世代が決めるでしょう」と云う物で有った。

日本も日本人も、今「別離」と「選択」を迫られている事を忘れてはならない。