"Country of Devotion":「Emperor/終戦のエンペラー」。

昨日雨の中、新歌舞伎座の開場式が行われた。

筆者も、開場式や今日の「手打ち式」(役者が全員黒紋付で舞台に上がる「総見」で、口上が有る)の桟敷に招待して頂いて居たのだが(序でに、公演初日4月2日の桟敷も!)、重要な仕事で今ニューヨークを離れられない…新歌舞伎座の「一世一代」なので痛恨の極みだが、仕方が無い…(涙)。

そして、日本全国の高裁で「一票の格差」に就いての「違憲判決」が出続ける中で、広島高裁に於いて「選挙無効判決」が出た。

今迄「違憲では有るが、選挙は有効」と云う、「事情判決」なる訳の判らない判例に拠って守られて来た絶対的な違憲状態に、やっと楔が打ち込まれたと云う事だろう。

即ち、今の安倍政権の信任にもこれで疑問が出た訳で、長年自民党政権が見て見ぬ振りをして来た「定数是正」を、何よりも先にやる事が「総理の職務」と云う物だろう。安倍総理違憲状態で選ばれた議員を即座に辞職させ、定数是正をした上で再選挙するべきだろう。。

さてニューヨークに住んでいて、外国人との日常会話中に第二次世界大戦天皇に就いての話題が急に出て来ると、一瞬背筋が冷やっとし、言葉を慎重に選ぶ様に為る。この「背筋が寒く為る感」は、恐らく日本に住んでいる日本人には中々判らない感覚だと思うが、「あぁ、俺は『敗戦国国民』だったのだ」と云う事実を「日常生活」の中で鋭く突き付けられると云う、ゾクッと、そしてチクリとする「一瞬」なので有る…そう云った意味で、筆者の「戦後」は終わって居ない。

そんなニューヨークでも今月から公開されている、第二次世界大戦直後の日本と昭和天皇の「戦争責任の有無」を描いた映画、「Emperor(邦題:『終戦のエンペラー』)」を観て来た。

この作品は2013年度アメリカ制作の映画で、監督は「真珠の首飾りの少女」の英国人ピーター・ウェバー。主演はダグラス・マッカーサー役にトミー・リー・ジョーンズ天皇の戦争責任を調査するフェラーズ准将にマシュー・フォックス、フェラーズの嘗ての日本人の恋人あや役には、「ノルウェイの森」から抜擢された初音映莉子、そして東条英機火野正平近衛文麿には中村雅俊木戸幸一役に伊武雅刀、その他西田敏行夏八木勲片岡孝太郎桃井かおり等の個性派の日本人俳優が揃う。

そして映画は、広島・長崎への原爆投下のシーンから始まり(原爆を「人類史上最悪の兵器」と呼ぶナレーションには、「米国映画なのに、大丈夫か?」と吃驚させられるが、この驚愕は本編のエンド・ロール迄持続するのだ!)、その後、連合国軍最高司令官マッカーサーがフェラーズを伴って来日、昭和天皇に戦争責任が有るや否や、そしてその答えが否の場合は「真の戦犯を探す事」をフェラーズに命ずる。

物語はサスペンス・タッチで進み、戦後日本の旧弊な政界・軍部・宮中への捜査活動と、行方不明に為って居るフェラーズの元恋人あやの捜索が絡み合い、日本への愛憎・理解と共に、最終的にフェラーズは「あや」と「天皇の戦争責任」の行方を突き止める。

そしてフェラーズは、「『天皇の戦争責任の有無』に関する報告書」をマッカーサーに提出するのだが…と云った話なのだが、岡本嗣郎原作の「陛下をお救いなさいまし 河井道とボナー・フェラーズ」を基にする、この非常にデリケートな問題を取り上げた本作には、大きなテーマが根底に流れる。

それは「Devotion-献身(或いは忠誠)」…その事は、あやのフェラーズに対する台詞の中の「If you understand "devotion," you will understand Japan」と云うフレーズや、あやの叔父の鹿島がフェラーズに語る場面でも、「Devotion」と云う言葉が頻繁に使われる事からも判るのだが、この「献身・忠誠」とは嘗て天皇に対して日本国民がしていた「コト」に相違無い…が、本作の最後に描かれる、筆者が思わず涙してしまったシーンにも強く関わって居るのだ。

そのシーンとは、マッカーサーがフェラーズに拠る報告書を読んだ後、恐らくはその処遇を決めかねた侭、昭和天皇片岡孝太郎)との会見に臨む場面の事で、未だ40代半ばの天皇が機を制してマッカーサーに放つ言葉にこそ在る。

「私は、今回の戦争に関して『全責任』を負う。他の何者にも責任は無い。今日貴方を訪ねたのは、私自身を貴方達の国の採決に委ねる為だ。」

その言葉を聞いたマッカーサーは、心を打たれた様に瞬時に表情を変え、こう述べる。

「私は貴方を裁く為に、此処に呼んだのでは無い…これからの日本を立ち直らせる為に、如何したら良いかを相談する為だ。力を貸して頂きたい。」

マッカーサーの回顧にはこの記述が有るが、映画のこの場面が本当に史実で有るのか、はたまた虚構なのかは、筆者には到底判らない…が、「アメリカで制作された」本作に於いては「こう云う結論」に為っていて、そして筆者は片岡孝太郎演じる若き昭和天皇マッカーサーに対して述べた「この台詞」を聞いた途端、周りにアメリカ人しか居ない映画館の片隅で、1人嗚咽したので有る。

その理由は、筆者が右翼だからでも何でも無くて、天皇が「全国民を救う為ならば、自分が身代わりに為る」と、自らを処刑出来る「敵」の眼前で確りと告げると云う、国家元首や政治家が当然するべき「献身」をあの年齢で果たそうとしたからで、その「潔い『ジェントルマンズ・スピリット』こそが、今の日本に最も必要なのだ」と強く感じたからだった。

重ねて云うが、この作品が「アメリカ映画」として制作・完成された事は、驚くべき事で有る。

当然アメリカ国内での本作に関する批評は時に厳しく、「日本の侵略・残虐行為に対しての言及が無さ過ぎて、不公平で有る」と云った声も聞こえる…だが、これは恐らくは制作に名を連ねている奈良橋陽子と野村祐人の功績だろうが、日本人作家に拠る「日本贔屓的」原作が有ったとしても、それをイギリス人監督に描かせた事に拠って、中立的で人間味と寛容に溢れた、非常に美しい作品(例えば、列車の中でのあやとフェラーズのシーン等)に仕上がったと筆者は思う。

こう云っては何だが、「パール・ハーバー」等とは異なり、アメリカ国内での興行収入がそれ程見込め無いかも知れない内容の本作を、それでも作ったアメリカの制作・配給会社、プロデューサー、監督、俳優…それと反対に、「絶対に」こんな映画は作れない、現代日本と日本の映画人(奈良橋・野村両氏を除く)。

「定数是正」さえ満足に出来ない日本の政治家には望むらくもないが、マッカーサーが胸打たれた、自らの美徳で有ろうこの「潔い献身」と、それを表現しタブーに挑む日本人の勇気は、一体何処に行ってしまったのだろう?

終戦のエンペラー」…日本に住む日本人、特に若い人にこそ観て貰いたい、素晴らしい作品で有った。