手紙。

前略、

あれから、如何お過ごしでしょうか?

最後にお元気な姿でお会いしたのは、昨年11月末の学会での懇親会だったでしょうか。それとも、家族で食事でもした時だったでしょうか…今となっては、もう既にうろ覚えです。

うろ覚えの理由は、太平洋を間に挟んでお互い生活をしていたが故に、貴方と御別れをする度に、何時も「これが最後かも知れない」と云った一期一会的な想いで有った事と、何処か「また会える」と高を括っていた事に因るのかも知れません。

しかし、こんなに突然に私の前から消えてしまった貴方の遣り方は、如何にも貴方の生き様らしく、少々身勝手で人騒がせな物でしたが、何処と無く皆を納得させてしまう物でも有りました。

貴方は若い頃から肺を患い、右肺と肋骨を失った、四級身体障害者でした。私が子供の頃一緒にプールに行った時、監視員に背中の刀傷の様な手術跡を見咎められ、「他の客が怖がるからシャツを着て泳げ」と云われ、不服そうにしながらも、渋々下着のランニング・シャツを着て泳いでいたのを覚えています。

また貴方は、小学生の私を夏休みになると京都と奈良に連れて行き、嫌だと云うのに博物館や寺社へと私を連れ回しました。そして絵師や仏像の名、延いては寺の伽藍配置迄をも私に覚えさせ、帰りの新幹線でテストし、出来ないとお弁当を買ってくれない、スパルタ式の先生でした。

貴方との少年時代の想い出として、こんな事位しか思い浮かば無い私は、本当に長い間、貴方が私を一人の「生徒」としてしか見ていないのでは無いか、と思っていました。それは私が社会人に為る迄、貴方が私を名前で呼んだ事が殆ど無く、何時も「君」と呼んでいた事にも理由が有ったのだろうと思います。

私の青年時代、私と貴方は非常に難しい時を過ごしました。貴方は下町の神田から多摩地区に引っ越しし、偶に家に飲みに来ていた、今は一流に為った学者の卵達を集めて飲み会を催したりしていましたが、元来江戸っ子でやんちゃな貴方は、外で遊ぶのが大好きでしたから、会話を交わす機会もかなり限られていましたね。

少し打ち解けて貴方と話をする様に為ったのは、社会人に為ってからでしょうか。広告会社のサラリーマンに為ると私が貴方に告げた時、真顔で「本気で毎日、満員電車に乗る気か?」と尋ねられたのには驚きましたが、その頃の最も思い出深い出来事は、貴方の大学のサバティカルの年に、二人で一年近く海外に出掛けた事です。

そして、人生で最も長い時間を貴方と共にし、世界の美術館を訪ねて廻ったその経験こそが、今の私の礎になっているのです。

また貴方は、所謂「遊び人」でした。私が貴方の人となりを誰かに説明する際、良く使ったのが「未だに『元禄』の世に生きている」と云うフレーズだったのをご存知でしょうか。

空いている土地に小さな能舞台を拵える程「能病」だったお能と、お茶名迄貰ったお茶は学生時代から嗜み、会話の途中で良く用いた、台詞を暗記する程大好きだった歌舞伎、そして七段だった合気道、延いては演歌専門のカラオケ迄、貴方の趣味道楽は当に現代の絵師「雁金屋」を地で行く物でした。

今年日本では「清盛」がブームらしいですが、梁塵秘抄の「遊びをせんとや生まれけむ」とは、当に貴方の事を詠ったかの様にすら感じられます。

仕事の方では、貴方が「國華」で最初に書いた論文は「熊野本地曼荼羅図」についてだと記憶して居りますが、当時東大教授で國華の委員で有られた藤懸静也先生に、「君ね、神様の事を知るには、先ずこの世の事を知らねばならないよ」と云われ、それが理由かどうかは解りませんが、貴方が常に神道神仏習合芸術への想いを持ちながらも、生涯の仕事に選んだ分野が浮世絵だった事は、当に運命だったのでしょう。

そして国際浮世絵学会の前身、貴方が心血を注いだ日本浮世絵協会の発足日が、私をこの世に送り出した二人の結婚式の翌日だったと云う事も。

また数年前、私がオークション史上日本美術品最高価格を記録した仏像を売った時、お礼の意味を込めて貴方に報告した時も、貴方は「ああそう、それは良かったね。ところで、カタログに間違いを見付けたんだが…」とお金の話には一向に関心を示さず、古いタイプの学者振りを私に見せ付けました。

今回貴方が倒れたと云う事を私が知ったのは、ニューヨークからミネアポリスに向かう旅の途中の、乗り換え空港の待合室でした。そして何の因果か、この旅は貴方が日本での展覧会として最後に監修をした、ミネアポリス美術館の浮世絵コレクションからの展覧会、「EDO POP」を観に行く旅でも有りました。

突然の知らせに、私も流石に動揺しましたが、戻る事も叶わず、結局ミネアポリス美術館で貴方が監修した浮世絵を不安な気持ちで観覧しましたが、それは、何か子供の頃の京都での出来事の様に、恰も貴方が私の隣で説明し覚えさせている様な、何処か懐かしい、不思議な感覚の観覧でした。

さあ、貴方との想いでは尽きませんが、今日はこの辺で筆を置きたいと思います。ですが、最後に、貴方に今迄一度も云えなかった事を、付け加えさせて下さい。


親父殿、私をこの世に送り出してくれて、本当に有り難うございました。そして私は今、貴方の息子で有る事を本当に誇りに思っています。

それは学者としてだけでは無く、父親としてだけでも無く、戦争や数多の障害や苦労を乗り越え、日本の芸術を愛し生きた、一人の日本男児の息子として…。

彼岸(そこ)でお仕舞でも舞いながら、そして、彼岸でまたお会い出来る日まで、どうぞお元気で。


享年83歳の親父殿へ。

愚息より。