「落下する水」と「Materia」、或いは「命」への讃歌。

ニューヨークに居るゲル妻からの報告に拠ると、彼女は今ホイットニー・ヒューストンの葬儀のライヴ中継を観ているらしいのだが、此れが真剣にスゴいらしい。

スティーヴィー・ワンダーアリシア・キーズを初め、ゴスペル・シンガー逹の歌や言葉は当に「祈り」と「今、神と共に在る事への祝福」に満ち溢れ、始まってから3時間を超えた今でも、観て聴いて居るだけのゲル妻は、涙が止まらないそうだ。

ゲル特派員(笑)はまた、「この葬儀は世界への追悼に為る!」と断言している。

それは何故かと聞くと、このゴスペル的葬儀は、牧師に拠る涙有り・笑い有りの説話や、全員が歌で参加する、所謂「会場全員参加型」の葬儀なので、参列者の反応が直接的で頗る良く、キリスト教的「命の尊さを謳歌する祭典」と化しているからだ、と云う事だ。

結局4時間を超えたホイットニーの葬儀は、棺を皆で担ぎ出す時に「初めて」彼女の曲「I'll Always Love You」が掛かり、参加者全員、そして中継を観ていたゲル妻でさえも、号泣の内に終了したとの事。

観たかった…そして聴きたかった。自分の「氷を溶かす」為にも。

さて日本滞在初日の昨日は、時差ボケのクラクラする頭と、身体の節々の痛みを堪えながら、先ずはひと月前に亡くなった父親の墓参を済ませた。

父の密葬は無宗教で執り行われたが、神道的には十日祭、二十日祭、三十日祭を行うのが通例なので、亡くなってひと月経った昨日は、父とサシでの「三十日祭」と為った訳だ。

その後、実家の母を昼食がてら見舞い、午後は都心に戻り、2人の写真家の展覧会を廻った。

先ず行ったのは、ギャラリー・ハシモトでの「山本糾展」。

現在豊田市美で開催中のソロ・ショウも大好評と聞く、この山本糾と云う作家を知ったのは、実は日本では無く、友人でも有る現代美術ディーラー、ファーガスのニューヨークのギャラリーで有った。

その時に展示されていた作品は、滝を撮影した彼のシグナチャー・シリーズ、「落下する水」の連作だったのだが、古美術を生業としている者としては、その中でも特に「那智滝」に心を奪われてしまったのだ。

この「落下する水」シリーズの作品は、滝の落ちる水の速度を変えた、上下2枚の別の写真で構成され、嘗て戸谷成雄等の彫刻作品を撮っていた作家だけ有って、画面内の一つ一つの岩、一滴一滴の水飛沫を取ってみても、モノクロームコントラストの強い、極めて「彫刻的」な美しさと力強さを持つ作品群なので有る。

またご存知、国宝「那智瀧図」を見ても分かる様に、我が国の「滝」は神の権化でも有る。その力強い自然に神々しい姿を感じ、畏怖の念を表現したいと云う日本人の気持ちは、700年と云う年月を経ても変わらないのだと云う事を、このシリーズで再び痛感するのだ。

現在ギャラリー・ハシモトには、この「落下する水」シリーズは展示されていないが、これまた静謐な新作「光・水・電気」が展示され、また山本の作品集等を楽しむ事が出来る。

さて馬喰町を後にすると、今度は都営線に乗って浜松町へと向かい、上田義彦の展覧会「Materia」を観に。

駅から湾岸の方へ歩き、ビルの6階へ上がると、「Gallery 916」の広大なスペースに着く。

そして、以前お邪魔した時には伽藍洞だったその巨大ギャラリー・スペースには、屋久島に力強く生きる屋久杉と自然の「有りの侭の姿」を、地を這う生物の視線程に低い視線から捉えた新作作品群が、美しくインスタレーションされている。

さて、筆者が昨年屋久島を訪れた時に(拙ダイアリー:「屋久島日記」参照)、大変お世話に為ったスーパー・ガイドの田平さんを紹介してくれたのは、実は上田氏で有った。

上田氏の、信じられない程の種類の光や色に彩られた屋久杉や、其処に共生する苔、水や岩等の作品群を観て歩く内に、筆者の精神は東京の湾岸地帯から一瞬の内に屋久島へと飛び、まるで去年田平さんと辿った山奥の道や沢を再び歩いているかの様な錯覚に陥りながら、会場全体に溢れる「マイナス・イオン」と「共生する命」を満喫したので有る。

人間を含めた、全ての生きとし生けるモノの「生死」は、須らく自然の循環の中に在る。

そして自然を畏怖しながら、その「命」を謳歌する事だけが、人間の出来る唯一最大の「祈り」で有り、「讃歌」で有るに違いない。
「祈り」有る芸術は、人を別世界に連れ出す程尊く、力強い。