吾輩は「香炉」で有る。

吾輩は「香炉」で有る。名前は未だ無い…事も無く、取り敢へず「銹絵獅子香炉」と呼ばれて居るやうだ。
吾輩が生まれたのは正徳五年、西洋の暦で云へば、壱千七佰拾伍年の事。吾輩をこの世に送り出したのは、かの名高き都の陶工尾形乾山…京の遊び人絵師、光琳の弟だ。

では先づは、吾輩自身の事を簡単に説明して置かうと思ふ。

吾輩の躰は、京焼の土を中国は明時代の青磁香炉の型を倣して焼き、蓋には獅子を配して、色は宋時代の磁州窯の如き黒白色、胴回りには花卉文様を施して居る。

そんな吾輩がこの世に生まれ出でてから、かれこれ参佰年も経つているのだから、躰の彼方此方に一寸した「傷」が有る事位、眼を瞑つて貰ひたい。

さて各々方には、吾輩の参佰年に亘る流転の人生為らぬ「陶生」も、中々に興味深ひのでは無からうか。

吾輩が生まれた江戸時代、拾八世紀の都のいんてり達の間では、だうも中国の文人的生活が憧れの的で、その実践がとれんどと為つていたらしく、吾輩もその流行の中の、趣味の良い文人に因つて乾山に注文された物らしい。

それは、吾輩の弟とも呼ぶべき輩が、江戸東京は出光美術館に居る事、そして田能村竹田なる絵師が、我々兄弟の由らしき「買乾山獅子香炉図」を画して居る事からも確かで有らう。

その後、どんな経緯でかは覚へて居らぬが、気が付けば明治の世の初めには、吾輩は既に池田男爵候の元に置かれて居た。

そして滔々、吾輩に取つて「運命の年」、明治卅六(壱千九佰参)年が遣つて来たので有る!

この年、亜米利加国の大富豪じえいん・すたんふおうど夫人は、弐年間の外遊に遊ばれて居た。埃及、印度、中国等を歴訪した夫人は、その途中日本国に立ち寄つて池田候から直接吾輩を買ひ取り、夫人の母国亜米利加へと持ち帰へつたのだが、その時から吾輩の海外生活が始まつたのだ。

すたんふおうど夫人はその後、今では世界に名高ひ「すたんふおうど大學」を設立、其処に美術館を創つて吾輩を略七拾年間に亘り展示した…詰まり吾輩は夫人に因り、「文化外交官」の役を仰せ遣つたので有る。
が、或る頃から館が困窮し始め、参拾数年前に吾輩は売りに出されてしまひ、その時に購入した、別の亜米利加人の所有と為る。

その後、その者から相続した者が、極く最近再び吾輩を売る事を決め、吾輩の写真を紐育に在る「くりすていず」と云ふ競売会社へ送り、孫一なる日本人に拠る査定の末、競売に掛かる事と相成つたのだ。

そして吾輩は、その日本人としては允に容貌怪異な孫一なる輩と共に、先月佰九年振りに祖国の土を踏んだので有るが、飽く迄もそれは皆が吾輩を下見する為の「一時帰国」で有つた。

たつた数週間の母国への旅を終へ、吾輩は再び亜米利加は紐育の客人と為り、今一度「ろつくふえらあせんたあ」と云ふ場所で開かれた下見会で、伍日間程「外交官」の役割を果たした。
そんな吾輩は、先週の水曜日を生涯忘れる事は出来ないで有らう。

その日吾輩は、売られる順番を緊張して待つて居た。そして吾輩の競りが始まると、その緊張は急速に高まつたが、競り手の一人が祖国の人だと判ると、望郷の念が一気に溢れて来たので有る。

そして吾輩は、拾九萬四千伍佰米弗で落札、佰九年に及ぶ西洋での「外交官」の役を免じられ、祖国へ帰る事と相成つた。

吾輩は「香炉」で有る…買い主の名は、未だ云へない(笑)。