セントラル・パークの「西行桜」。

昨日は思いも掛けず、ロトが外れた(笑)。

事細かく決めていた、例えば5-60億円程を投じて設立する筈だった「Hisashi Yamada Memorial Center of Japanese Art and Culture」を初めとし、「国境なき医師団」等各ボランティア団体への寄付金、実家と舞台の改修費用や屋久島とシチリアに建てる筈だったヴィラ建設費、延いては欲しかった仏像や茶碗、現代美術の支払い迄、賞金の使い途の総ては、儚くも「夢の藻屑」と化してしまったのだ。

が、「夢」は持つ事自体にこそ意義が有るし、金は持ち過ぎない方が身の為だ…が、実際「当たるんじゃ無いか?」と思っていた事も否めない…楽観主義者、万歳である(笑)。

そんな先週土曜の夜は、A姫との久々のディナーを、ゲル妻を伴ってイースト・ヴィレッジの和食店「S」で。

初めて行った「S」だったが、「サーモン・マリネ」等の料理も、リーズナブルで美味しい。〆の天丼も中々の物だったが、デザートの蕎麦の実の入りの「蕎麦アイス」や濃厚な「黒胡麻プリン」迄頂き、皆大満足。

そして昨日の午後は、毎年恒例写真家G氏主催の「花見@セントラル・パーク」に参加。

4月に為ったばかりだと云うのに、満開の峠を越えてしまった今年のセントラル・パークの桜だが、「花冷え」の曇り空の下、10数人が集まったピルグリムヒルの桜は、未だ何とかその花弁を保って居り、宴会中にもその花びらが、ハラハラと誰かの頭の上やコップの中に舞い落ちる。

しかし、薄曇りの今年の花見の宴の間、そして参加者の笑顔や笑い声の中、ピルグリムヒルに在る一番大きな桜の木を見上げてからと云う物、筆者の心にずっと居座って居たのは、世阿弥作の能「西行桜」で有った。


花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎にはありける

佐佐木信綱校訂、岩波文庫版「山家集」第6番)


この「西行桜」は、上に記した西行の歌に着想を得たと思われる曲だが、内容は極めてシンプル。西行と老桜の精が語り合うだけの物語で、過ぎ去って行く人の世の時や生死の儚さを、時期が来れば咲き誇り、時期が来れば静かに散って行く「桜」に喩えて語る夢幻能で有る。

そしてこの能が筆者に居座った最大の理由は、宴の最中、時折舞い落ちる桜の花弁の一枚一枚に、数ヵ月前にその「時期」が到来したばかりの父を見てしまった事だ。

桜の花の命は短い。だからこそ、その盛りの時を愛しむと云う意味で、この曲でも「春宵一刻 値千金 花に清香 月に影」と謡われる訳だが、その命の儚さは人も同じ…。

そしてこの宴に同席した、ダンサーやギャラリスト、写真家やサイト運営者、老若男女、そして赤ん坊をも含めた何れもが、何時かその「時期」を迎える迄、その「盛り」を慈しむ事しか我々に出来る事は無いので有る。

花冷えのしたセントラル・パークでの今年の花見は、筆者に取っては西行と父に想いを馳せる、淋しさと儚さとが同居する物に為ってしまった。


うき世には とどめおかじと 春風の 散らすは花を 惜しむなりけり

(同上、第85番)


がしかし、「儚さ」は「花」に勝るとも劣らず美しい…何故ならそれは、「人」の「夢」と書くからなのだ。