アブラモヴィッチの「レゾン・デートル」。

今日で6月も終わり…今年も半分が終わる。

さて今、世界には「アブラモヴィッチ」と云う姓を持つ、2人の有名人が居る。

1人は、云わずと知れたロシアの石油王でコレクター、大富豪のロマン・アブラモヴィッチ。総資産は180億ドル超と伝えられる、筆者より3歳年下の男だ(世の中とは、何と不公平なのだろう!:嘆)。

そしてもう1人は、ユーゴスラヴィア生まれのパフォーマンス・アーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチ…不公平感を何故か全く感じない彼女こそ(笑)、今日のダイアリーの主役で有る。 

さて、このマリーナ・アブラモヴィッチと云うアーティストを知らない人は、今すぐ自分で調べて頂きたいのだが、何しろ己の肉体を使っての過激なパフォーマンスで世界に名を馳せている、当年取って66歳(!)のパワフルなオバサマ。

一昨年にMOMA で開催された彼女の大回顧展も(拙ダイアリー:「アートに於ける『人体』の可能性II:『THE ARTIST IS PRESENT』@MOMA」参照)、75万人を動員しての大盛況だったが、そのメイン・パフォーマンスと同名のドキュメンタリー・フィルム「MARINA ABRAMOVIĆ:THE ARTIST IS PRESENT」を、「Film Forum」で観て来た。

さて、この作品は2012年米国制作作品、監督はマシュー・エイカーズとジェフ・デュプリー。主演は勿論アブラモヴィッチだが、その他に本作品中大きな存在感を示すのが、彼女の嘗てのパートナーでダンサーのウライ、MOMAの担当キュレーターのクラウス・ビーゼンバック(上映後ステージでトークを行った)、そして彼女のギャラリストで有るショーン・ケリーで有る。

映画は、このMOMAで開催された回顧展の数ヶ月前、嘗て彼女が発表して来た数々のパフォーマンスをMOMAの展覧会で演じるパフォーマー達が、アブラモヴィッチの自宅に「合宿」をしに集まる所から始まる。

そう云えば数ヶ月前、空飛ぶ建築家Sがニューヨークのディレクターを務める、レム・コールハース率いるOMAが、モンテネグロアブラモヴィッチの新しい「研修所」を造ると云う発表をPS1で偶々やって居たが、今後は其処もその合宿の舞台になるのだろうか…閑話休題

それにしても画面の中のアブラモヴィッチは、観客の中に発見したイケメンを気にしたりして、若く何とも溌剌として居て、とても「『自傷』パフォーマンス」をしたり、精神に支障を来たした経験の有る人には見えない(まぁ、少しは見えるかな…:笑)。

そしてその彼女に寄り添うのは、嘗ての恋人、ダンサーのウライ。最初は別れた「元カレ」が、何故こんなにも「元カノ」のドキュメンタリーにフィーチャーされているのか不思議だったのだが、その疑問は、この作品を見て行く内に徐々に氷解して行く。

それは、アブラモヴィッチのアートが所謂「アートの『レゾン・デートル(存在理由)』」に深く基づいていて、それが「肉体の存在」と「他者の存在」に由来すると云う事が明らかにされると共に、その「元カレ」こそが、アブラモヴィッチに取っての最も近い「他者」だからなのだ。

彼女のパフォーマンスが「他者」との関係性に於いて成り立っている事は、過去に発表された有名なパフォーマンス、例えば観客に化粧道具や刃物等を与え、6時間に渉って観客に自身の体を自由にさせる「RHYTHM 0」や、彼女とウライが「万里の長城」の端から各々歩き始め、3ヶ月を費やして1000キロを歩き、最終的に出会うと云う「THE GREAT WALL WALK」、そして今回の「THE ARTIST IS PRESENT」からも明らかだろう。

そして、このドキュメンタリーに収められたMOMAでの「THE ARTIS IS PRESENT」も、アブラモヴィッチが椅子に座り、机越しに置かれた椅子に観客が座り(後で机は取り払われたが)、唯お互いを見つめるだけ、と云うパフォーマンス。

編集されたそのシーンを見ていると、彼女に対面した観客は、次第に涙を流し始めたり、微笑んだりするのだが、アブラモヴィッチはと云えば対照的に、前の観客が「対面席」を去れば頭を垂れて眼を閉じ、次の対面者が席に座ると漸く顔を上げ、常にその対面者の顔を静かに、そして冷静に見つめるだけで有る。

がしかし、たった1度だけ彼女が激しく動揺したシーンが収められていて、それは彼女が顔を上げて見た対面者の顔が、ウライのそれで有った時だ…瞬間的に動揺した彼女は、徐々に涙し始め、最後は何と手を伸ばして、彼の手に触れてしまうのだ!

考えると、これは実は非常に象徴的な出来事で、アブラモヴィッチのアートを理解する上でも、非常に重要なシーンだったと思う。

先ずそれは、彼女のアートに於いて重要な位置を占める「他者」は、通常「無関係な他者」の筈だが、完璧な「他者」に為り得ない事が有り得ると云う事実。

そして、画中にも良く観られた様に、幾ら観客(対面者)がアブラモヴィッチの雰囲気に呑まれ、或る種宗教的な感覚に陥って仕舞い、涙を流したり興奮したりしても、彼女のパフォーマンスは決して「宗教的なモノ」では無い、と云う事実だ。

神仏は「他者」を欲しないし、信者は神仏以外の「他者」を欲しない。信者が欲しいのは唯神仏、所謂「救済」である。アートが宗教と異なる大きな点は其処に有って、アートは人間としての「他者」と、人間の「肉体」に、余りに依存するので有る。

アブラモヴィッチのアートは、其処から始まり、それを具現し、彼女の存在理由も其処にこそ有る。

マリーナ・アブラモヴィッチと云う不世出のアーティストの素顔、その美しさや聡明さ、その過去は基より、彼女のアートとその存在理由を、「元カレ」や「観客」、キュレーターやギャラリストを通じて教えてくれる、非常に見応えの有る優れたドキュメンタリーで有った。