「世界で最も歌が好きで、最も歌が上手い女」:Buika@Town Hall.

やっと春めいて来た、ニューヨーク。そして気温も上がり、座骨神経痛も良く為り始めた先週末は、マヨンセと「Whitney Biennial」へと向かった。

然し噂には聞いて居たが、今回の「Biennial」は一寸酷過ぎると思う…例えばリヒターやコスース、フレイヴィン等の明らか且つ単なる焼き直し作品も眼に付き、況してや出展作家の平均年齢が高く為って居る様な状況では、もう次回から観る気が失せて仕舞う。こんな展覧に一般人に10何ドルも出させるのは、本当に如何な物かとの感が拭えない。

時間を無駄にしてガックリした後は、ホイットニー近辺の行き付け「V」でお茶(&ピーチ・タルト)をしたが、その後思い付いて、ワインを抱えてチェルシーにジャズ・ピアニストのプーさん(拙ダイアリー:「Incurably romantic」参照)を訪ねた。

一杯遣りながらプーさんの近況を聞くが、最近もライヴの途中で帰って仕舞う等(余りの詰まらなさに40分間ピアノの前に座って居たが、遂に帰って仕舞ったとの事…)、相変わらず彼方此方で喧嘩して居るらしいが、喧嘩が出来る位元気な事に逆に安心する。早くプーさんのライヴが観たい。

そして昨日の夜は、アフリカン・スパニッシュの歌手、ブイカのコンサートを聴きにタウンホールへ。

マヨンセがずっと前から推奨して居たコンチャ・ブイカは、マヨルカ島出身でギニアの血を引く「フラメンコ・ヴォーカリスト」。筆者のブイカに関する知識は、アルモドヴァルの「The Skin I Live In」(拙ダイアリー:「アルモドヴァルの、美し過ぎる『フランケンシュタイン』」参照)にフィーチャーされて居た歌手と云う程度だったが、この晩のライヴには正直心底驚愕した!

ステージに出て来ると先ずは酒を口に含み、その後舞台へと注ぐ「儀式」を行う。そして机の上のグラスの酒をグビグビと飲むと、激ウマのアコースティック・スパニッシュ・ギター、ベース、パーカッションの3人だけをバックに、ブイカの歌声が響き渡った。

その後は曲が進むに連れ、酒が入るに連れ、ブイカの素晴らしい歌声はその輝きを増し続け、観客との掛け合いも乗って来て(嗚呼スペイン語が分かったなら、尚の事楽しかっただろう!)、コンサート途中に何回もスタンディング・オベイションが起こる程の、最高のパフォーマンスと為った。

然しブイカは、恐らく「今世界で、最も歌の上手い歌手」では無いだろうか…「歌が上手い」と云う意味には、音程が確りして居る、グルーヴが有る、声が通る等色々有るだろうが、ブイカはその全てを持って居る上に、「個性」が有る。

そしてその「個性」はアフリカとスペイン、フラメンコとジャズとソウルの融合の結果で有って、混血児が美しいのと似た意味で新しいのだが、その新しさは、彼女が時折聞かせる恐るべき「インプロヴァイゼイション」や「スキャット」、一寸した「ダンス」や「間の手」にも自然に顕れるので有る。

また、もう1点昨晩のブイカに強く感じた事は、彼女は「今世界で、最も歌の好きな歌手」でも有るのでは、と云う事だ!

いや「歌手」と云う括りより、「女」と云った方が正しいかも知れない。其れはブイカがふと歌の合間に見せる歌が大好きで仕方ないが故の、恥じらいや素直さ、そしてそこに垣間見える「極めてフェミニンな魅力」に因るのだと思う。

さて、この晩のブイカの恐るべきパフォーマンスは、筆者に最高級の感動を与えて呉れたと共に、或る恐怖感を与えたのだが、其れは「東京オリンピック」の開会式パフォーマンスの事で有った。

そしてそれは、ブイカの様にアイデンティティを守りながら、ローカルな言語で、然しグローバルな客を此れ程迄に感動させられる実力を持ったアーティストが、日本に居るだろうか?と云う意味なのだ。

芸術に高低が有るとするならば、「A◯B48」等はブイカに比べれば「地下の果て」感が拭えない。アートとして、パフォーマンスとしてのクオリティが違いすぎるのだ…本当にどう為って仕舞うのだろう…。

これから弾丸出張に出掛けるJFK空港のラウンジで、昨晩酔いしれたブイカの、ハスキーでメロウ、強くて優しい歌声を思い出しながら、今日はこれ迄。