セバスチャンのバースデー。

セバスチャンに会ったのは、確か僕が未だ半ズボンを履いていた12歳の頃…彼は僕の目の前に現れた、最初の「英国人」だった。

出会った時、ロンドン大学修士課程から文部省の国費留学生として日本に来て居たセバスチャンは、色白で背が高く、凄く痩せていて、身体の幅だけを云えば、今の2/3位しか無かったと思う。

そして、日本留学中の彼の指導教官で有った父を訪ねて、彼が初めて僕の家に来た日の事は、今でも昨日の事の様に覚えて居るが、特に印象に残って居るのは、両親、弟、僕と夕飯を食べている間、セバスチャンが何故か一言も発し無かった事だ。

それは、恐らくは未だ自分の日本語に自信が無かった事や、シャイな英国人気質、初対面の緊張も有ったのだろうと思う…そして食事後、母がセバスチャンに何故寡黙だったのかと尋ねた時、彼はボソボソと「子供の時に『食事中に話してはいけない』と云われたからです」と答えたのを覚えて居る。

そんな教育を子供に施したセバスチャンの父親は、「007」のモデルの1人と云われている。セバスチャンが云うには、父親は元々特派員だったが、東ヨーロッパやバルカン半島に駐在し、表向きの新聞記者の仕事と同時に英国政府に情報提供等もしていたらしく、そんな中の面白いエピソードや出来事を親友だったイアン・フレミング(「007」シリーズの原作者)にも、手紙で伝えていたらしいからだ(勿論、機密事項は書かなかっただろう)。

その父親の元、セバスチャンはキプロス島で生まれ、その後イギリスで育った。そしてカレッジでグラフィックデザインを勉強していた或る日、浮世絵版画に出会い、その浮世絵で博士論文を書く為に日本にやって来たのだった。

ロンドン大学の「SOAS(The School of Oriental and African Studies)」で博士号取得後、クリスティーズ・ニューヨークの開店と略同時に日本美術部門のスペシャリストに為ったセバスチャンに再会したのは、僕が大学生に為って、本場のDJを見る為に初めてニューヨークを訪れた時だったけれど、それよりも重要な再・再会は、僕の父がサバティカルで1年間ニューヨークに研究滞在する為、僕も勤めていた広告会社を辞め、父に付いて行った時の事だ。

何故なら、その1年、父とMETやボストン、シカゴ等のアメリカの美術館の倉庫に迄入り込み、あんなに大量の、そして重要な日本美術作品を観る事に因って、やっとその素晴らしさを理解し始めたのも束の間、時遅く既に帰国の日が近づいていた或る日、セバスチャンが何気無く云った一言が僕のその後の人生を決定付けたのだから。

「そう云えば、マゴ、クリスティーズで今日本人を探しているんだが、働いてみないか?」

当時英語も満足に出来なかった僕は即座に首を横に振ったが、セバスチャンが云うには、1年間のロンドンでの研修社員生活が終わった時点で、会社が採用しなければそれ迄なのだから、その時には日本に帰れば良いでは無いかと云う…。

「ロンドンに住むなんて事は、僕の人生に於いてもう2度と無いに違いない!」

そんな軽い気持ちで入ったクリスティーズ・ロンドンでの1年は、今でも本当に人生最悪の過酷な1年だったのだが、それもその筈、後で知った所に拠ると、僕がトレーニングの為に配属される各部門の部長達が、初めて配属される「日本人」にどの様に接して良いか分からず、セバスチャンに「彼をどう扱ったら良いのか?」と聞く度に、「Just kick his ass !」(「ただ、奴のケツを蹴っ飛ばしてれば良いんだ!」)と答えていたそうだから。

しかし世の中とは不思議なもので、変わっている様で変わっていない事も有る…あれから21年経った今でも、僕は未だにクリスティーズに勤めているし、セバスチャンはクリスティーズを辞めてディーラーに為り、ビジネスの上では時折ライヴァルに為ったりするが、今でも僕のニューヨークの叔父さんで有り、メンターで有り続けてくれて居る。

さて、そのセバスチャンの「60回目のバースデー・パーティー」が、一昨日の夜、アッパー・イースト・サイドのレストラン「Cafe Boulut」にて、50名程のゲストを招いて行われた。

今やアメリカ屈指の日本美術ディーラーと為ったセバスチャンの、記念すべき60回目のバースデーの為に、アメリカ各地、ヨーロッパ、日本から駆け付けた錚々たる顔触れの学者、コレクター、美術館学芸員、業者、修復家、元同僚や親友等がシャンデリアの下、長いテーブルの両側に25人ずつ座り、セバスチャンが「誕生日席」に座った夕食会。

その食事の合間、時折起こるナイフでグラスを叩く「チンチン」と云う音と共に、出席者が立ち上がって披露するスピーチの数々は、まるでその賛辞や祝辞、昔のエピソードを贈られ続けるセバスチャン自身の性格の様で、時に真面目、時にユーモラスでシニカル、そして感動的な物ばかりだった。

そんな中、クサマヨイを含めた何人かの人達から、

「マゴ、彼は君の事を子供の時から知ってるんだし、仕事でも君は彼の後を継いでいるんだから、スピーチをすべきでは無いか?」

と云われたが、この晩の僕には到底無理な相談で、それはディナーが始まる前からずっと、今年の1月に亡くなった父の事がその死以来初めてと云っても良い位に脳裏から離れず、柄にも無くエモーショナルに為っていたからだ。

いや、それよりも、ディナーも終わりに近くなった頃、セバスチャンが、父にどれだけ世話に為ったかを皆の前で語った時、不覚にも溢れ出そうな涙を堪えるのに必死だったからかも知れないし、もし父が生きて此処に居たら、ワインに顔を赤らめながら、どれだけ嬉しそうに微笑んで居ただろう?と考えてしまったからかも知れない。

が、それにも況して僕を引き留めたのは、これは余りにも日本的かも知れないけれど、本当に大事な事、特に本当の感謝とお礼とかお祝いとか云う物は、大勢の前等で云うよりも、相手の目を見て直接云うべき物では無いかと思ったからだ。

そしてこの晩、この広い世界の中の誰かが、僕の「父に本当に世話に為った、今有るのは父のお陰だ」と、自分のバースデー・パーティーで感謝を表している事実、また、こんなに感謝される何事かを父が誰かにしてあげられた、と云う事実を知る事に因って、僕が今年の始めに、如何に大切な人を失ってしまったかと云う事実に、初めて気付いたからなのだ。

11時を過ぎてパーティーも終わり、セバスチャンに改めてお祝いを告げて家に帰ったが、中々寝付けず、しかしクサマヨイが寝てしまった頃、セバスチャンに対する、また、父に対する不思議な程大きな感謝の気持ちが沸いて来て、涙が止まらなく為った。

そして僕が60迄頑張れて、ささやかなパーティーを開く事が出来たなら、それ迄セバスチャンが元気でいてくれて、パーティーに出席してくれる事を、彼が長生きしてくれる事を心から祈った。

たった一度の短い人の一生に於いて、見守られたり見守ったりする誰かが居ると云う事は、若しかしたら人生最大の幸福の一つでは無いかと思ったからだ。

Sebastian, Happy Birthday to you, again !