「手」の歴史。

ここ数日、クサマヨイの実家の在る萩に行って来た。
今回の帰省は毎年年末恒例の物だったが、今月11日に亡くなった彼女の祖父、萩焼陶芸家三輪壽雪の市民葬に出席する為でも有った。

102歳10ヶ月と云う天寿を全うした壽雪お祖父さんは、亡くなった時には生死の境も曖昧な程安らかだった様だが、最後の最後迄自宅で過ごし、家族に見守られて逝かれたので、幸せな最期だったろう。

壽雪お祖父さんは、三輪窯九代雪堂の三男節夫(さだお)として、明治43年(1910)に生まれた。中学卒業後は、兄の十代休雪を助け家業に従事するが、昭和16年川喜田半泥子に師事、昭和30年陶号を「休」とすると、その2年後「第四回日本伝統工芸展」で初入選を果たす。

昭和40年には大阪三越にて初個展「三輪休茶陶展」を開催、同42年(1967)、兄十代休雪が隠居し休和と号するに際し、十一代休雪を襲名する。昭和58年には萩焼人間国宝に認定され(兄弟では史上初)、平成15年長男龍作が十二代休雪を襲名すると自らは「壽雪」を名乗り、翌16年には「日本陶磁協会賞制定50年記念賞」を受賞、18年には「萩焼の造形美 人間国宝三輪壽雪の世界」展が、東京国立近代美術館工芸館他で開催された。

103年に垂んとする人生には、数々の展覧会、受賞や褒章も有ったが、此処ではその殆どを省略した以上が、壽雪お祖父さんの甚だ簡単な略歴で有る。そして、この1世紀を超える生涯でお祖父さんがやり続けた事とは、萩焼400年の伝統を継承しながらも、独創性豊かな作風で茶陶の世界に常時「風」を巻き起こす事だったのでは無いかと思う。

特に、晩年から始めた「鬼萩割高台茶碗」シリーズの豪快さは、従来の「茶碗」と云う枠を超えて、謂わば「『彫刻』で茶を飲んで居る」と思わせる程で、時折「『茶室で使う茶碗』としては、大き過ぎるのでは無いか」と云う声が上がっても、本人は一向に意に介さなかったらしいが、しかし茶事で実際に使ってみると、点てる亭主、飲む客に拠ってはこれ程映える茶碗も無く、「如何なる茶碗も使う者を選ぶ」と思えば、当にその通りなのだろう。

筆者が壽雪お祖父さんと初めてお会いしたのは、年の瀬に萩の料理屋でクサマヨイとの結納をした時だから、今から9年前…結納の場でも確りと正座をされて、和かで豪快に嗤い、当時自転車に乗り、新幹線の車中で歩き回る「93歳」だったとは今でもとても信じられないが、それからの9年間、毎夏冬の休みにお会いする度に聞いた呵々大笑やユーモアに、その人柄の豪快さを感じて居た(拙ダイアリー:「センセーショナルな『100歳』」参照)。

さて、26日に萩市民館で行われた「市民葬」は非常に厳粛且つ簡潔で、生前の姿を映すビデオや、市長を始めとする萩市の関係者の方々や金子賢治先生の弔辞、林家晴三先生や市民の皆さんに拠る献花、クサマヨイの師でも有る観世流シテ方関根祥六師の謡「江口」等でしめやかに行われたが、その式中強く感じ入った事が2つ有った。

1つは、十二代休雪が遺族を代表して述べた謝辞の中のエピソードで、それは壽雪の次男、当代休雪の弟栄造が亡くなった時の話で有る。

未だ若かった息子を失くした父親の悲しさを慮り、その葬儀の翌日訪ねた長男が見たのは、悲しみに落ち込み沈んだ父親では無く、夏の日、麦わら帽子を被って膝まで有る長靴を履き、家の裏の畑で日々育てていた無農薬野菜に与える為の「肥料」を、力強く肩に担いで居た父親の姿で有ったと云う。

この話に含まれる意味は、色々と考えられるだろうが、筆者が一番に思ったのは「循環」と「責任」と云う、2つの言葉で有った。

自分より早く起きてしまった息子の死等、親として悲しく寂しいに決まって居る。が、壽雪お祖父さんの様に長年「自然」と深く関わり、向き合い、土を弄り、薪を焼べ、火を見ると云う生活を送って来た陶芸家の1日は、その息子の死の翌日だからこそ何時通りに行われねば為らず、それに因って家の者を安心させると云う、自分の家族が400年に渡って「家業」とし、自分自身が「人生」としている者としての責任感が為せる技では無かったか…そして、その時担いで居たのが「堆肥」だった事が、人の生死は当に「自然の循環」の中にこそ有るのだと云う事実を、筆者に強く感じさせたのだ。

もう1つは、市民葬中飾られて居た、お祖父さんの素晴らしい「遺影」…そして、この遺影の素晴らしさは、お祖父さんの表情も然る事ながら、その「手」に有る。

通常「遺影」は、亡くなった人の顔か上半身のアップを使うのだが、お祖父さんの遺影には、自作の茶碗を両手で確りと持つ姿が使われ、写真に見えるその手指の逞しさと大きさにこそ、生涯土と格闘して来た、三輪壽雪と云う陶芸家の人生が投影されて居た様に思ったからだ。

萩焼400年、そして三輪窯350年の歴史…それ等を守り、変革して来た壽雪お祖父さんの102年は、単にその「『手』の歴史」と呼んでも良いのでは無かろうか。

在りし日のお祖父さんの顔と「手」を見ながら、そんな事を想う年の瀬と為った。