「12 Years a Slave」、または「人類の99%は奴隷で有る」。

マイナス8度のニューヨークに戻って来た。

日本最後の日々は、関西にトンボ帰りしたりして、インフルエンザに罹った事に因るスケジュールの混乱の調整を試みたが、焼け石に水。然し、下見会や大きな取引の進展も有ったので、日本に行った甲斐も有ったと云う物だ。

そんなこんなで日本最後の日々のプライヴェート・タイムは、アーティストやギャラリスト達との食事を楽しんだりも出来たが、今回の日本滞在中は殆ど展覧会に行けなかった…が、最後の最後に観に行けたのが、ギャラリー小柳で開催して居たミヒャエル・ボレマンス展。

ボレマンスは、ベルギーのゲントに居住するアーティストで、女性を描いたポートレイト作品の連作が展示されて居たが、今現在抽象よりも具象に一層の興味が有る筆者には、彼の作品が何か小さな「宝石」の様に思われ、愛おしささえ感じた。

さりげない日常の中の「誰か」…ボレマンスは、例えばエリザベス・ペイトンやエリック・フィシェル等と共に、単なる具象作家では無い、一寸したシュール感や現代性を作品に含ませた力の有る現代性の強い具象アーティストの1人だと思う。

と云う事で、此処からが今日の本題。

ニューヨークへ帰るNH1010便で観た、感動的な映画作品の事なのだが、その作品とは「12 Years a Slave(邦題:それでも夜は明ける)」…つい先日発表された第86回アカデミー賞で作品賞に輝いた、スティーヴ・マックイーン監督2013年度作品で有る。

この実話に基づいた映画の原作は1853年に出版され、1842年にワシントンで誘拐された黒人ヴァイオリニストで有る主人公の、その後送り込まれたルイジアナ州の農場での12年にも及ぶ奴隷生活を描く。

そして本作を観て驚いたのは、19世紀アメリカでのアフリカン・アメリカンの生活が、東部と南部では天と地ほど異なる事…そんな事すら自分が知らなかった事を先ずは恥じたのだが、何しろマックイーン監督の非常に抑制されたドキュメンタリー・タッチの素晴らしい演出に、盛大な拍手を送りたい。

諦めと絶望の12年間…そしてその中で主人公が持ち続ける希望。その「仄かな光」をマックイーンは切々と撮り続け、主人公役のキウェテル・イジョフォーや、本作でアカデミー助演女優賞を受賞したルピタ・ニョンゴがそれに最大限応えて居る。また、奴隷を使う側の白人役のポール・ダノマイケル・ファスベンダー、そしてベネディクト・カンバーバッチ等の演技もかなり良くて、リアル感溢れる画面を引き締めた。

また本作には、ブラッド・ピットが本作をプロデュースした事や、史上初めて黒人監督作品がアカデミー作品賞を獲った事等、尊敬に値すべき事実が多々有るのだが、何しろ1番筆者を感動させる事実は、アメリカとアメリカ人が自ら犯した「過去の誤ち」を今でもシビアに芸術表現したその作品に、最高賞を与えた事なのだ。

さて、筆者が未だ高校生(だったと思う)の頃、村上龍の或る文章を読んで強い衝撃を受けた事がある。

それは「人類の99%は奴隷で有る」と云う一文で、当時「あぁ、そうなのだ…」と妙に納得したのだが、その事は大人に為るに連れて徐々に現実味を帯び、それは資本主義経済社会、世界各地に存在する人種差別や性差別、経済や教育の格差等をこの目で見、時には体験する度に、その刃先を首に突き付けられて来たからなのだ。

この「12 Years a Slave」は、その原点の一つを改めて示してくれて居るが、本作中で奴隷を使う白人の1人(カンバーバッチの役)がバプティスト派の聖職者だった事も象徴的で、「拡大解釈」すれば「神ですら、その差別の元凶に為り得る」と云う、衝撃の事実をも再確認させて呉れる。

そして21世紀の今、幸いにも自分が生きて居る自由な立場を今一度考え、それが如何に恵まれて居るか、そしてこの世のどんな犠牲の上に成り立って居るかを考えさせて呉れる、素晴らしい作品で有った。

自分の境遇を必要以上に悲観する事は、世界の現実に目を向けない、恥ずべき行為で有る。そして「拡大解釈」をし続け、自省しない国や国民にその未来は無い。