極寒中の濫読日誌。

いやぁ、マジに寒い…。

記録的寒波に襲われて居る東海岸、シカゴやデトロイトでは零下20度以下、そして筆者の住むニューヨークでもマイナス12度等、最早当たり前…昨日の朝に至っては、時差ボケの頭を振りながら「華氏4℃(摂氏−15.5℃)」の中を30分間歩いて出勤したのだから、とてもやってられない。

そしてそんな日には、厚手の靴下にヒートテックの上下、ワイシャツとダウンのヴェスト、その上にツイード・スーツを着て、ダウンのロングコートに耳当てをし、フードを被る程の重装備しなければとても外を歩けないのだが、それでも会社に行かねばならない己の身の上を、心底呪った(涙)。

が、当然ながら何もニューヨークが世界で一番寒い訳では無く、この間東京の自宅近くに在る行き付けのマッサージ屋に行き、筆者担当の中国人のおばさんと話して居たら、彼女は最近ハルビンの実家に帰ったそうで、その時の故郷の気温は何と「−28℃」だったそう…何事にも、上には上が有るので有る。

そして今週から愈々仕事も始まったが、今日は最近読了した本の中から、極寒の中、暖かい部屋で読むに相応しいと思う書籍の覚書を。


・関容子著「勘三郎伝説」(文芸春秋

一昨年惜しくも亡くなった十八代目中村勘三郎(拙ダイアリー:「闘う『傾き者』の死」参照)の想い出を、長年交遊の有った歌舞伎エッセイストが記す。そして本著を読むと、中村屋と云う人は何と魅力的な男だったのだろうかと、改めて思う!

「十八代目」と云っても、江戸期中村座の座頭を継ぐ直接の家系では無かった為、己の家を「老舗」にする為に、また歌舞伎と歌舞伎界を革新して行く為に粉骨砕身した勘三郎の半生を、著者の暖かい眼とエピソードで綴る内容と為って居るが、それもこれも全ては中村屋人間力の為せる技だ。

が、残念な事に、本書には中村屋の生涯を記すに欠かせない「女性遍歴」に就いてが殆ど触れられて居らず、「出会った人々」として軽く登場するのみ。

恐らくは遺族(夫人)への配慮では無いかと思うが、然し吉沢京子から始まり、太地喜和子大竹しのぶ、岸本加世子、樋口可南子宮沢りえ牧瀬里穂米倉涼子椎名林檎、そして石川さゆり迄、豪華絢爛な女性達(皆、気が強そうな女性ばかりでは無いか!)と浮名を流した生き様は、或る意味「傾き者」の真骨頂と云えるのでは無かろうか…中村屋、全く以って羨ましい男で有る(笑)。

「芸の肥やし」とは良く云った物だが、何も歌舞伎役者に限らず、男の一生は「付き合った女性」のタイプや質、その付き合い方等で、或る程度判るのでは無いだろうか?…この本には全くその「女性遍歴」が書かれていないにも関わらず、読んで行く内に、嘗て筆者が未だ学生だった頃、筆者の女友達の母親が娘と筆者に向かって、「男の顔は『履歴書』、女の顔は『領収書』だからね」と云っていたのを何故か思い出したりした。

太く短く生きた「傾き者」、中村屋を偲ぶに相応しい心温まる著作で有る。


大下英治著「児玉誉士夫 闇秘録」(イースト新書)

「昭和戦後の『フィクサー』、或いは『政商』は?」と聞かれれば、田中清玄、小佐野賢治横井英樹笹川良一、三浦義一、大谷貴義、瀬島龍三、西山広喜等色々と名前が出て来るだろうが、最大級の金と権力を欲しい侭にした男と云えば、本著の主人公児玉誉士夫を置いて他には無い。

本作はその児玉の生い立ちから死迄を、昭和政治史上の重要な局面エピソードを絡めて記す。しかし、如何にも児玉が「金」以上に「国」を思って居たかの様に本書が書かれて居た為、正直筆者には読後かなりの違和感が残ったのは否めない。

それは本書が如何に児玉の正体をオブラートに包もうが、児玉が「金権右翼」の最右翼だったと云う事実を筆者が知っているからなのだが、政治家や財界人がこんなにも小粒に為った最近の世の中を鑑みると、汚いのは分かって居ても、児玉の様な人間が居て欲しい気もして来るから不思議だ。

そして時代が生み出した、児玉誉士夫なる名の「フィクサー」と云う怪物の生涯は、正しく「戦後」と云う時代と重なり、その「戦後昭和」と「自民党政治」は、この怪物「フィクサー」達に由って形作られたと云っても過言では無いだろう。

では、「現代のフィクサーとは誰か?」…ナベツネ位しか思い浮かばないが、しかし彼は「フィクサー」と呼べる程の大物でも無い。全く以って「表」の世界のみならず、「裏」や「悪」、「影」の世界に於いても、本当に日本は人材不足なのだと痛感させられる。

都知事選を控えて居る今、戦後「裏」政治史と金権、右翼とヤクザの関係性、そして「大物の不在」を考えさせられた一冊で有った。


坂口恭平著「坂口恭平 躁鬱日記」(医学書院)

熊本在住のアーティスト、坂口恭平の新著。

最近、筆者はこの作家に注目して居るのだが(拙ダイアリー:「百雑砕」参照)、建築・文学・美術・音楽・政治・環境・自殺・家族、そして躁鬱病迄をも網羅する未だ若い彼の立ち位置は、現代日本社会に於けるアーティストとして特異で有ったとしても、それ以上に貴重且つ重要な物だ。

その坂口の「幻年時代」に続く新著は、医学の専門出版社から出された、自身の躁鬱病日記。彼の素直で生き生きとした文章は、家族への愛が溢れて居て、楽しく暖かい…が、それは当然彼が「躁状態」の時の話で、本文中に時折挿入される「鬱記」の文章とのギャップは、この著作が或る種の「医学書」で有る事を証明して居ると共に、この「鬱記」の方こそが、坂口の文学的本質を表現していると確信する。

そしてこの日記の「真の主人公」は、「死ななきゃ、何でもいいよ」と夫に告げる、坂口夫人「フー」。本書での彼女の存在は、夫、そしてアーティストで有る坂口を支えるのみならず、この日記を貪り読む、如何なる読者の心迄も支えて呉れる「女神」なのだ!

嘗て筆者が感銘を受けた日記に、ミュージシャン&作家の中原昌也に拠る「作業日誌:2004-2007」が有るのだが(拙ダイアリー:「『現代美術下見』と『G氏の茶会』」参照)、それに勝るとも劣らぬ素晴らしい必読日記だと思う。

文学者坂口恭平、恐るべし。


・橋下麻里著「変り兜 戦国のCOOL DESIGN」(新潮社)

こう云う「日本美術本」を待って居た!

本書は、日本美術を中心に活躍するライターが海外でも大人気の「変り兜」を今風に解説し、その魅力を最大限に伝える好著で有る。

何しろ「変り兜」は、数多有る日本美術のジャンルの中でも、観る者に最も「現代美術」に近いフィーリングを感じさせられる物で、昔からそもそも日本よりも海外での人気の方が高かったのだが、アメリカでは2009年にMETで開催された「Art of the Samurai」展(拙ダイアリー:「観ずに死ねるか!:"Art of the Samurai"@MET」参照)、そして日本でも昨年開催された大阪歴博や佐野美術館での展覧会に拠って、再び脚光を浴び始めて居る。

そして満を持して発行された本著は、著者の云う「戦国のオシャレ」「ロボットアニメ」「SF映画」「タワー」「マジンガー」等のキャッチ・フレーズに拠って、戦国時代とその時代の「男の心意気」をタイムマシンに載せて21世紀へと運び、特に若い読者に新たなる興味を持たせる構成と為っている。

本書冒頭の「強くなければ生きていけない、カッコよくなきゃ闘う意味がない」と云う「宣言」は、レイモンド・チャンドラー原作「プレイバック」の中で、名探偵フィリップ・マーロウが呟く名台詞「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きて行く資格がない」(因みにこの文句は、懐かしの角川映画「野生の証明」でも使われた)が典拠と思うが、こんな台詞でさえ21世紀の今では新鮮且つ斬新に聞こえるのだから、時代の移り変わりは早い。

カッコ良さと強さ、そして繊細さが同居するのが真の「日本男児」…そして「日本美術」も又然り、と再認させて呉れる素晴らしい本書、是非若い人に一読して頂きたい。


てな具合だが、それにしても寒い。が、熱いお茶を入れ、御煎餅をボリボリ齧り、好きな音楽を聴きながら、知的好奇心を擽る本を読む…極寒中の醍醐味は、これに尽きるのです。