神の存在と不在:「火まつり」。

全く以って、今年のニューヨークは寒い。

東京も大雪だそうだが、此方も先週また2度も雪が降り、道はグシャグシャ…そんな中、ファッション・ウィークの開催時期に合わせて日本の百貨店がソーホーのグリーン・ストリートに出した、ポップアップ・ストアのオープニングに行って来た。

この企画はファッション、アート、フード、リヴィングの4つのカテゴリーの40コンテンツ以上を紹介する、「クール・ジャパン戦略推進事業」の一環だそうだ…が、個人的には少々残念な催しで有った。その理由は幾つか有る。

店内キュレーションは、恐らく誰かに発注したのだと思うが、何しろ狭い店内に展示された「物」が多過ぎて、今ひとつ各々の作品が良く見えない。「折角の機会だから、あれもこれも」と云う気持ちも分からなくは無いが…。

また、あの空間に「4分野・40コンテンツ以上」を詰め込んでも(詰め込んだが故に、と云えなくも無いが)、筆者にはその百貨店の「眼」が殆ど見えて来なかった。優れたセレクトショップに行けば、どんなに多くの種類のブランドがその店に並んで居ても、きちんと「その店の『眼』を通った上での『モノ』」だと云う事が判ると思うが、残念ながらこの点も不透明だった様に感じた。

そしてレセプション…こちらは招待客が多過ぎ大混雑で、歩く事すらままならない状態。これでは折角の商品をキチンと観る事が出来ないし、大混雑の中で歩くと始終人とぶつかるので、飲み物が作品に掛かったりしかねないので、気が気でない無い。

そもそもファッションやフード、アート業界等の全ジャンルから、「キー・ピープル」を呼ぶ事自体無理な相談だが、招待客をもっと絞り、彼等に良く商品を見て貰って「スピーカー」に為って貰う方が得策だろうと思う。レセプションの意味は其処にこそ在る。

そんなこんなで、今回のこの店舗デザインとレセプションは、ニューヨークに住むアート関係者としての筆者の眼には、例えば東京で見る「地方特産展」の様に見えて仕舞ったのだ。

文句ばかり云っている様で自己嫌悪気味だが、先ず以ってこの「クール・ジャパン戦略」自体が、如何にも役人の考えそうな事で、筆者が見た大半には「クール」の「ク」の字も無く、ダサい。

しかも世界で最も「クール」(「コー」と発音するとそれっぽい:笑)な街ニューヨークで、僕等が聞けば赤面しそうな「クール・ジャパン」と云う自画自賛的名称を使うのも如何な物か…そもそも政府が推進している様なダサい企画に、優秀な企業やデザイナーは乗るべきでは無い。「自力」で勝負するのがニューヨークなのだから!(拙ダイアリー:「『個人』で闘う勇気、或いは「和して同ぜず』」参照)

百貨店は、大規模な「セレクト・ショップ」である。次回は、1. 今回は「フード」次回は「アート」と云う様に、1回毎にテーマを分ける、2. 政府の企画等に乗らず、独自のキュレーションで出店すると云う事に、是非とも期待してみたい。

前置きが長く為ったが、此処からが今日の本題…日本の中で、最も「『神』を感じる土地」とは一体何処だろうか?

色々な意見が有るだろうが、「熊野」もその最右翼に違いない、と筆者自身の経験からも思う。嘗て熊野を旅し、そのムッとする様な木と森と水の匂い、ざわめく風、時折見掛ける動物や虫…自然が人間を支配し服従させて来た歴史が、実は「日本の神」を産んだのだと云う事実を実感出来る「恐ろしい」土地で有った。

先日その熊野を舞台にした、柳町光男監督1985年度作品「火まつり」を観た。

熊野出身の芥川賞作家、中上健次の原作・脚本、武満徹の音楽、タイトルデザインは浅場克己と、一癖有る反骨なスタッフを揃えた本作は、熊野の二木島を舞台とする実話に基づいた作品で有る。

「山の神が『彼女』だ」と豪語する、若く逞しい樵の主人公は、自分が神の「彼氏」だと云う事を理由に、島に古くから有る数々の仕来りを破る。そんな中、島に海洋公園建設の話が持ち上がり、女系家族で育った主人公の実家の買収話が出る。自然と屈託無く暮らして居た主人公は、その事に因って苛立ち始め、そして島恒例の「火まつり」が行われた翌日…と云った物語。

キャストは主人公の樵を北大路欣也、その昔の彼女に太地喜和子、主人公の妻に宮下順子、その他小林稔侍や伊武雅刀三木のり平森下愛子、安岡力也、小鹿番藤岡重慶蟹江敬三川上麻衣子を揃えた、シブい人選とリアリズムに徹した所が見所の作品である。

さてこの作品のテーマは、神を信じる者が時折陥る「盲信」の恐ろしさと、日本に独特な「神」に支配される古代と近代の葛藤だと思う。

「神」と云う絶対的な存在が有るが故に、それに屈服して来た人間の中に、何時の日か本作の主人公の様な「神を操れる」と信じる者が登場するのは必然。そしてそれは、恐らくは日本の歴史上に於いて天皇を利用して来た者と同じで、結局は破滅を招く。

そして本作の結末が「神の存在」が齎す悲劇だからこそ、観客は「神の不在」を信じるしか道は無くなるのだが、それでも自分や自分の周りの者の身に起こった不幸や悲劇を、全て神の仕業にして仕舞う我々は、正しく「近代人」なので有る。

また、本作で主人公自身、そして熊野と云う神代の代から続く土地に建設される「海洋公園」にこそ、この「近代」が象徴されて居る訳だが、その建設に由来する「家族殺人」も「神の意志」に因る物なのだろうか?

「神の不在」を説くには、「神の存在」を先ずは証明せねば為らない。そして、近代と古代とは血の繋がらない他人等では無く、連続している、或いは表裏一体、若しくはクローン的親子の様な物で、それを我々は「歴史」と呼ばねばならない。古代と近代は対立すべき物では無い…融合すべき物なのだ。

本作を観て「ニューヨークに住む日本人」で有る筆者は、「神の存在」を確かめに、再び熊野に行きたく為った…神の不在を証明出来るかどうかは、未だ判らない。