典雅と優美の極みー「半蔀」。

ここ数日は、関東・関西で幾つかの重要なミーティングをこなしたが、夏バテも手伝って、精神的にも肉体的にも疲労感が漂う。

さて来月のニューヨークのAsian Art Weekには、今迄の様な「日本・韓国美術セール」は無い。その理由は、当社日本・韓国美術部門が今秋からセール・ストラテジーを変えたからで、レギュラーのセールを止め、ライヴ・セールとしては今年春に開催した「宗教美術セール」の様な「テーマ・セール」、そして「オンライン・オンリー・セール」と「プライヴェート・セール」の、3つのチャンネルでのセールズへと移行したからだ。

そして僕は、クリスティーズが仲立ちとなって相対取引をする、以前から大いなる興味が有った「プライヴェート・セール」のビジネス、そしてコレクションと重要作品のみを扱う立場と為ったのだが、カタログをしなくて良いのは何と無く寂しい気もするが、50を過ぎた身としては、体力的には正直云って少し嬉しい。

さて、マヨンセがNYへ帰って行った先週末は、トラウマリスでの「川内倫子+NOMA t.d.」展を観たり、坂口恭平の「徘徊タクシー」を読み始めたり、大好きなスクリャービンのピアノ・ソナタを聴いたり、はたまた「L」で世界一旨いドリアやシナモン・トーストを食べたりと充実して居たのだが、昨日の夜行き付けイタリアン「D」に於いて開催された、気の置けないアーティストやギャラリスト達との食事会も、相変わらずカロリー消費量満点で免疫力アップ効果抜群、「4時間」に渡る大爆笑のディナーと為った。

が、今日の本題は、日曜日に観たお能喜多流シテ方大島輝久師に拠る「半蔀(はしとみ)」で有る。

「半蔀」とは半分開けられた蔀戸(しとみど)の事で、蔀戸とは平安時代に作られた格子の嵌った板戸。源氏物語の「夕顔」の段に題材を取ったこの能は、内藤藤左衛門の作とも云われる。

京都北山の雲林院の僧が立花供養をして居ると、女が現れ、美しい白い花を供える。僧がその花は何だと女に尋ねると、夕顔だと云う。僧が女に名を問うと、女は「その内に分かるで有ろう…私は花の陰から来た者で、五条辺りに住んで居る」と云い残し、花の中に消えて行く。

里の者から源氏と夕顔の物語を聞いた僧が五条辺りを訪ねると、昔の侭の佇まいの半蔀に夕顔の咲く家が在る。僧が弔いを始めると、夕顔の霊が半蔀を上げて現れ、源氏との恋を語り、舞を舞う。そして夜明けと共に、夕顔の霊は更なる弔いを僧に頼み、半蔀の中へと帰って行く。

この「半蔀」は、源氏が五条辺りで見掛けた、身分不詳だが夕顔の如き可憐な女に劇的に恋をし、愛するが、源氏が連れ出した先で夕顔は物の怪に殺され、花の夕顔の命の如き短い恋は終わる…と云う源氏物語のストーリーを、全くと云って良い程踏襲して居ない。然も同じ題材の能「夕顔」の様に嘆き言も云わず、儚い恋を懐かしく回想する夕顔の可憐さのみにフォーカスを当てて居る所が、この能の特色だろう。

然し儚い恋程、美しい想い出も無い…源氏が夕顔に贈った歌、

「折りてこそ それかとも見め たそがれに ほのぼの見えし 花の夕顔」

をフィーチャーしたしっとりとした謡や、僕も大好きな笛の一声(この一声で、僕は遥か彼方の王朝期へと、一瞬の内にタイム・スリップして仕舞うのだ!)から全編を通して、恐らくは如何なる能の中でも最も美しい旋律の一つで有ろう笛の調べに拠って導かれるシテは、高貴で優雅な佇まいと舞を要求される。

そして、大島師の謡は哀愁を帯びながらも良く通り、その舞は若々しく、切なく、美しく、「半蔀」と云う夢の如き王朝の典雅と優美の極みを堪能した、至福の日曜日の昼下がりと為ったのだった。

そんな「半蔀」の王朝美の余韻を引き摺りながら、今僕は早朝新幹線の中…「夕顔」との出逢いを求めて(嘘、嘘、仕事です!)、宇宙人かも知れない現代美術家N氏の妄想に違わ無い(笑)、京都へと向かう。