「宿の女」と「ローサ・カバルカス」。

ジョニー大倉が死んだ。

が、僕に取っての大倉の記憶は「キャロル」の曲でも「チ・ン・ピ・ラ」の役でも無く、或るイヴェントでジョー山中の「アメリカ国歌」に対し、「君が代」を歌った大倉なのだ(拙ダイアリー:「『許せんインチキ』と『許せるインチキ』」参照)…ジョニーのご冥福を心よりお祈りする。

さて来日して1週間、仕事も徐々にスピードアップして来て、重要個人コレクター宅訪問やカンファレンス・コール、プライヴェート・セール用の重要作品のプロモート用撮影等をこなしながら、昨日は某美術館へ大々名品を持ち込んでの、日帰りプレゼンテーションを敢行…上手く行くと良いのだが。

と云う事で、今日の本題。

最近読んだ文学作品に出て来た、「エロい老人男を手玉に取る、得体の知れない女」が今日のテーマなのだが、ダイアリー・タイトルを見てピンと来た人は、自他共に認める文学好きに違いない。

何故なら「彼女達」は川端康成とガルシア=マルケスの作品に登場する、アカデミー賞クラスのサポーティング・アクトレスだからで、文豪達のその作品とは「眠れる美女」と「わが悲しき娼婦たちの思い出」…序でに云えば、両作の主人公の男は67歳の江口と云う老人と、何と90歳の匿名のライターで有る。

この2作品は共に傑作小説だと思う…が、ガルシア=マルケスの作品は序文に「眠れる美女」の抜粋を引用して居る事からも分かる様に川端へのオマージュ作品なのだが、老人の性を描いた物なので有るにも関わらず、その内容は著しく異なる。

そして両作に著される老人男の淫猥振りや純愛、綿密に描かれる美少女達も然る事ながら、僕はそのフェチ極まる老男を少女達へと誘う「宿の女」と「ローサ・カバルカス」と云う2人の女性に、何と云うか、熟成された生ハムの如き色気(笑)を感じるのを禁じ得ないのだ!

その感覚は例えば、嘗て当時80歳を超えていた老舗旅館の女将の恐るべき美貌と色気を目の当たりにした時、或いは両国国技館で前の桟敷席に座っていた、只者では無い老女の和服の襟から見えた項を見た時、そしてローザンヌで出逢った老未亡人の笑顔に接した時(拙ダイアリー:「或る夏の日、ローザンヌで:前後編」参照)を思い出させる極めてセクシーな物で、女性のセクシーさとは年齢を超えて存在する、と云う良い例だろう。

そして、時に淫靡で匂う様な中年から老年に掛けての女性の性的魅力は、例えば「眠れる美女」の書き出しで

「たちの悪いいたづらはなさらないで下さいませよ」

と江口老人に念を押す「宿の女」が、「40半ば位だが声は若く、囁く様に話し、黒い濃い瞳を持って居る上に左利き(此処は重要だと思う)」で、江口老人の質問に薄ら笑いではぐらかす様な処にこそ横溢する。

また、ローサに至ってはこの「宿の女」とは真逆で、ストレートで強烈、嘗て若かったライターの盟友的存在のムンと匂う様な売春宿の女将な訳だが、ビジネスライクな態度の中にライターに対する敬愛を見え隠れさせつつも、トラブルに見舞われたり恋に落ちて仕舞う老人を助け、そして翻弄する。

そして、恐らく若かりし頃は絶世の美女だったで有ろう、67歳と90歳の好色爺を軽くあしらうこの2人の中高年の女の色気と存在感こそが、この「眠れる美女」と「わが悲しき娼婦たちの思い出」の2篇の「エロジジイ短編」を「名作」にして居るのだと思う。

…と、これから老境を迎える僕はひしひしと感じた訳だが、然し其れに付けても「此の種の女性」は、何故か年を重ねる毎にセクシーな「魔物」的生き物に為って行く…君子、危うきに近寄らず、で有る(笑)。