トリュフォーとゴダールが半世紀前に描いた「近未来の愛」。

アッと云う間に終わった正月、実家で再び風邪を引いて仕舞った(涙)。

実家に泊まり込んで過ごした正月は久し振りで、母親の手作り御節料理も然る事ながら、古画軸を掛けた下に我が家の庭の松と色取り取りの「薔薇」(!)を某人間国宝備前大鉢に活けると云う、突拍子も無い茶室の床の室礼に驚愕する(笑)。

霜柱も立つ位の、都心より恐らく2度は低いと思われる彼の地での滞在で、改めて風邪を引いて仕舞った訳だが、そのお陰で日本の低俗窮まり無い正月番組も観れ、思いの外身体を休める事が出来た上に母親孝行も出来た…不幸中の幸いとは、この事だろう。

が、このダイアリーは今年も元気に続きます!…と云う事で、今日のダイアリーは「イメージ・フォーラム」で先日観て来た特集上映、「ヌーヴェル・ヴァーグSF映画対決 トリュフォーXゴダール」に就いて。

そしてこの「唆られる」特集でフィーチャーされた作品とは、トリュフォー監督1966年作品の「華氏451」と、ゴダール監督1965年作品の「アルファヴィル」…ヌーヴェル・ヴァーグを代表する2大監督に拠る、何と「SF映画」なのだった!

さて「紙の燃える温度」をタイトルとしたご存知「華氏451」は、レイ・ブラッドベリの素晴らしい原作を基に、主演にオスカー・ウェルナージュリー・クリスティ、そして僕の大好きなニコラス・ローグ(彼は後に監督と為り、「赤い影」でクリスティを使う!)を撮影監督に迎えた作品で、僕がこの本作を観るのは恐らく2ー30年振りか…。

華氏451」のストーリーの詳細は各自調べて頂きたいが(僕が連載中の雑誌「Dress」の昨年9月号に詳しい)、昨年の横浜トリエンナーレのアーティスティック・ディレクター、森村泰昌氏もテーマとして選んだこの「華氏451」は「焚書坑儒」をテーマとした問題作。

だが、このSFと云うよりは人間ドラマな作品中に散在する興味深い点の中で、僕が昔大いに興味を持ったのは燃やされる「本」その物だった。「ロリータ」や「君主論」、「高慢と偏見」等、ジャンルと年代、国と言語を超えた「燃やされる本」のチョイス…そして主人公の「消防士」が最初に読んだ本が、何故ディケンズの「デヴィッド・コッパーフィールド」だったのか?…が今でも大いなる疑問なのだが、何方かその理由をご存知だろうか?

対して僕が初めて観た、ハードボイルドSFとでも呼ぶべき「アルファヴィル」は、1965年ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作で、主演にはオトナの男の魅力タップリのシブいエディ・コンスタンティーヌと、その相手役には何とアンナ・カリーナ(当時のゴダール夫人…何と美しいのだろう!)。そして此方のテーマも人工知能・コンピューター社会への警鐘と、それに拠る人間への言論統制リテラシーと感情機能の低下。

そしてこの「デジタル・リマスター」された2作共、ローグに拠る硬い画面やゴダールの陰影際立つ素晴らしい映像の中で映える、如何にも60年代のカッコ良いファッションや建築(「モノレール」もだ!)をバックに、最終的な形こそ違えども、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手2人が考える処の「近未来社会での『愛』」が語られる、と云う結末に落ち着く所が面白い。

僕はトリュフォー作品が大好きだが(拙ダイアリー:「トリュフォーの夜」参照)、ゴダールは「映像」作家としてはスゴいと思っても、「映画」作家としては「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「軽蔑」「カルメンという名の女」位しか好きでは無い(笑)。

が、「華氏451」は、惜しまれながら52歳で没した作家が「突然炎のごとく」と「暗くなるまでこの恋を」の間に、また「アルファヴィル」は、新作を何と3Dで撮った84歳の現役作家が「軽蔑」と「気狂いピエロ」の間に撮ったのだから、2歳差の両監督双方共、脂の乗り切った時代に産まれた作品に相違無い。

この2人に就ては、「ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールトリュフォー」と云うドキュメンタリー・フィルムが有るので、そちらを是非見て頂きたいのだが(序でに云って置けば、「華氏451」で焼かれる雑誌の中に「カイエ・デュ・シネマ」が有って、その表紙がゴダール作品「勝手にしやがれ」のジーン・セバーグだったりするのも意味深だ)、半世紀前にこの天才2人に拠って語られた「近未来」が、少なくとも「ネット依存症」に拠る本離れ、言論統制下に在って腰抜けと為ったメディア、劇的に低下した国民のリテラシー、そして延いては秘密保護法を通して仕舞う「日本の今」を予知して居る訳で、僕はその先見性に驚く。

この特集は今月16日迄…「2人のヌーヴェル・ヴァーグ」が半世紀前に描いた近未来を確認出来るのは、今しか無い!