カキツバタノヒ。

ミスター・スポックが死んだ。

スタートレック」シリーズの最初から、どんな時でも冷静沈着・論理的で、人間の「感情」等理解出来ない物事が有ると片眉を上げる、耳のとんがったヴァルカン人と地球人とのハーフでエンタープライズ号の副長役だった、個性派俳優レナード・ニモイの事だ。

ニモイを僕が最初に観たのはこの「スタートレック」だったけれど、その後の「スパイ大作戦」の変装名人役や、「刑事コロンボ」の犯人の医者役(「溶ける糸」!)を演じたニモイも、未だ印象深い。

だが僕とニモイにはご縁が有って、それは僕が持って居る某現代美術作品の僕の直前のオーナーがニモイだと云う事。そしてその作品が或る種の「Disguide(変装)」系作品で有るのも、流石「スポック好み」ぽくて面白い…怪優ニモイのご冥福を心よりお祈りしたい。

そんな中、「天国」サンフランシスコから日本に到着した僕は、日曜日にも関わらず昼からは早速仕事に勤しむ。個人宅に伺い、恐らくは桃山期は有るであろう屏風一双を拝見したのだが、落款の調査の必要は有れども、中々の大作で眼を瞠った。

その後夕方には青山に向かい、ワタリウムで現在開催中の展覧会「ここより北へ 石川直樹奈良美智展」を観る。この展覧会は、年も出身もそのアートも異なる2人のアーティストが、青森と北海道のアイヌ語の土地を訪ねる事から始まる「旅」の記録だ。

彼らのアートの原点を探る子供の頃の写真や、二人の旅の道具、身の回りの品、そして青森〜北海道〜サハリンで記録された写真群は、一種ロード・ムーヴィーを観て居る様で、僕のマインドは遥か北へと飛ばされた。

鑑賞後は、浩一さんとカフェでチャイを飲みながらの四方山話…ノンビリ仄々とした、良い展示でした。

と云う事で、話はその前日、来日翌日の土曜日に遡る。

ニューヨーク〜(3時間戻る)サンフランシスコ〜(17時間進む)東京、と云う最悪の時差ボケ・パターンを逆利用し、僕が朝から頑張って向かったのは熱海…MOA美術館で今日(3/3)迄開催中の展覧会、「光琳ART 光琳と現代美術」を観る為だった。

この展覧会の目玉は、光琳の二大国宝で有るMOA美術館蔵「紅白梅図屏風」と根津美術館所蔵の「燕子花図屏風」が56年振りに一度に観れる事だが、それ以上に画期的なのは、琳派芸術の影響を受けた近現代美術家の作品も展示されている事。

そして美しい梅も咲き始めたMOA美術館に着き、大混雑の中国宝重文を含む数々の名品を観た訳だが、その中でも取り分け気に留まったのは実は近現代美術の方で、福田平八郎の「漣」、会田誠の「紐育空爆之図」や「群娘図'97」、そして杉本博司の新作「月下紅白梅図」。

杉本に拠るこの「月下紅白梅図」屏風と「華厳滝図」軸の2点の出展作品は、古美術から近現代美術に移る間の仄暗い展示室に特別に展示され、その魅力を倍増させている。特に「月下紅白梅図」のモノクローム画面の中で、銀色に輝く観世水の如き流水はより装飾性を増し、恰もクリムトの絵画の様…「本歌取り」此処に有りきの、素晴らしい作品で有った。

さて、僕がこの日にMOAに行ったのには実は理由が有って、それは展覧会が終了間近だった事も有るが、この日MOA能楽堂で開催された定期能公演の演目が、「杜若 恋之舞」だったから。

何故ならこの日の「杜若」のシテは観世喜正師、小鼓には大倉源次郎師と、お付き合いの長い方々が出演して居た事と、これだけの琳派展を観た直後に「杜若」を観能すると云う贅沢な機会は、そうざらには無いからで有る!

能楽堂に行くと、辻惟雄河野元昭河合正朝の大先生方とバッタリお会いしてビックリしたりしたが、「梅ヶ枝」と「弱法師」のお仕舞、狂言「文相撲」を経て、愈々「杜若」が開演と為った。

この能は「昔、男ありけり」で始まる伊勢物語第九段、業平が東下りをする段に因る。三河の国に着いた諸国一見の僧が、沢辺で杜若を愛でて居ると女が現れ、此処は八橋と云う場所だと告げる。僧が八橋に纏わる古歌の話をすると、女は「か・き・つ・ば・た」の五文字を句頭に置いた歌、

唐衣 着つつなれにし 妻しあれば 遥々来ぬる 旅をしぞ思ふ

の故事を語り、僧に自分の庵を宿として提供する。女は其処で唐衣に着替え、透額(すきびたい)の冠を被った雅な出で立ちで現れ、衣はその歌に詠まれた高子の后の物で、冠は歌を詠んだ業平の物だと云い、自分は杜若の精だと名乗る。

そして杜若の精は、業平が歌舞菩薩の化身で、その歌の言葉は草木迄も成仏させる(草木国土悉皆成仏)力を持つと語り、伊勢物語中の業平の歌を引きながら舞を舞う。そして夜明けと共に悟りを得、姿を消して行く。

「杜若」は「昔の恋の数々」を「仏法の功徳」と結ぶ、夢幻能では珍しい一場物だが、その大和言葉に拠る美しい詞章と煌びやかな衣裳、派手さは無いが淑やかで品の有る舞の美しさと云ったらない…その典雅な役処を、喜正師は美しく気高い舞と朗々とした謡で見事に演じ切ったのだった!

素晴らしいお能を観た後は、喜正師のご家族や源次郎師とご一緒に、熱海の老舗洋食店の「スコット」へ。

美味いエスカルゴ、ハンバーグやババロア迄を皆で和気藹々と頂き、帰りの新幹線では「杜若」の詞章を憶い出しつつ家路に着いた、感性もお腹も大満足と為った1日でした。


花前に蝶舞ふ 粉々たる雪。
柳上に鶯飛ぶ 片々たる金。
植え置きし 昔の宿の かきつばた。
色ばかりこそ昔なりけれ 色ばかりこそ昔なりけれ 色ばかりこそ。