「カヴァレリア・ルスティカーナ」の贖罪。

やっとこさっとこ春めいて来たニューヨーク…が、日本等はGW真っ最中らしいので、羨ましい事甚だしい。

そうして長過ぎた冬が終わったのだから、気持ちが軽くなる筈なのに、気が重くなる事ばかり…安倍首相の米議会演説が日本で好評と聞き、耳を疑った。

件の演説だが、聞くからに原稿棒読みで、その上発音も文の区切り方も酷く、後で知れば「ここを強調して」とか「拍手を待て」とかのアンチョコ迄有ったそうでは無いか。アメリカ上院議員達があんなレヴェルのスピーチで感動し、スタンディング・オベイションを何十回かしたと日本のマスコミと人々が本気で思ってるならば、大間抜けな世間知らずで世界の笑い物、と云う事を一刻も早く認識すべきだろう。

然し英語が下手な癖に、何故日本語で心を込めて誠実なスピーチをしないのだろう…以前某有名建築家のインタビューに就ても同じ事を書いたので省略するが(拙ダイアリー:『「英語の壁」と云うモノは、本当に存在するか』参照)、体裁だけを重んじる見栄っ張り首相の本領発揮と諦めては居ても、在米日本人としては国辱モノ…一国の総理たるもの、「国益」に反する事はしないで頂きたい。

…と失望心頭なここ最近、もう1つジャパン・ソサエティのベネフィット・オークションで本当にガッカリする事が有り(ニューヨークで「日本文化」をレップして居るJSだからこそ、確りして欲しい)、首相共々「アメリカに於ける日本」に幻滅し、気分が落ち込む。

そんな僕はと云うと、核拡散防止の専門家やアジア最強投資ファンドのMD、日系ファンドのマネジャー3名とランチを「Y」でしたり、中国美術ディーラーEとはイタリアン「I」でディナーしたり。

或いは現在フィラデルフィア美術館で開催中の「狩野派展」(と云うか、略「狩野探幽展」或いは「江戸以降の狩野派展」と云って良い)をやっと観に行けて、確かに大仙院の重文の元信や、他人とは到底思えない(笑)芳崖の不動明王も来ていたりと力は入って居たのだが、結局美術館を出る時に最も感動して居たのは、物凄くセンスの良い印象派・近代絵画のラインナップだったかも知れない。

またある晩は、超有名米某誌創業家一族のコレクターと今月で閉まって仕舞う和食店「S」でディナーをしながら、『俺等がキース・ジャレットに唯一云いたい言葉は、「Shut up and play」だ!』(笑)、或いは「リー・モーガンがあんなに若い時に女に射ち殺されたのは、マイルスのキャリアに取ってはラッキーだったのでは無いか?」、「ウェイン・ショーターはライヴ中怠け過ぎだ!」等と意気投合しながら、昼夜忙しく過ごす。

だが先人曰く、忙中閑あり…昨晩は数有るオペラの中でも大好きな、「カヴァレリア・ルスティカーナ」をメトロポリタン歌劇場に観に行った。

劇場に着くとチラホラと空席も目立ったが、何時でも世界の何処でも「歌劇場」と云う場所には他の劇場には無い独特の雰囲気が有って、妙に心が浮き立つ。そして照明が落ち、オーケストラが前奏曲を奏で始め、「カヴァレリア」が始まる。

「カヴァレリア」の物語は古典的で、許婚だった女ローラが主人公トゥリッドゥの出征中に結婚して仕舞った為、トゥリッドゥは仕方無く妻サンタと結婚する。が、ローラを忘れられ無いトゥリッドゥは、ローラとヨリを戻して仕舞い、サンタは寂しさと嫉妬の余り、ローラの夫に、ローラが自分の夫と浮気をして居る事を密告する。そうしてトゥリッドゥとローラの夫は決闘する事に為り、最後は「トゥリッドゥが殺された!」と云う村民達の声で終わる、と云うストーリー。

舞台には大きな食卓と周りに椅子が置かれ、その椅子に出演者達が座ったり立ったりして舞台は進行するが、舞台自体が回転する仕掛けになって居るニュー・プロダクション(歌舞伎座からの技術提供と聞く)。が、観終わってみると演出自体は正直それ程目新しさは無く、「カヴァレリア」の歌劇としての構成や物語の古典性も考えると、やはりこのオペラはアリアと前奏・間奏曲の美しさ、そして歌手たちの技量に掛かっている。

そして今回の「カヴァレリア」は、主人公トゥリッドゥ役のCarl Tanner、その妻サンタ役のEva-Maria Westbroekの2人の感情豊かな歌声、その上オーケストラの弦が思ったよりも素晴らしく、豊饒な仕上がりに為って居たと思う。

さてこの歌劇には大きなミソが2箇所有って、それは先ずは主人公トゥリッドゥが決闘をしに行く直前、酔った振りをしながら、自分の事を密告した妻サンタの将来をさり気無く母親に頼む場面、もう1箇所は劇の最後の最後で「トゥリッドゥが殺された!」と叫び騒ぐ村民達に、妻サンタが自分の最愛の夫を密告し死に追い遣った自責の念に駆られながらフラフラと近付くのだが、村民達は全員喪の黒のベールを被り、近付いて来るサンタから一斉に顔を背けるシーンで有る。

その中でも特に心に残るのが、嘗ての許婚を愛して仕舞った為に罵倒し、自分を密告した上に死のお膳立て迄した恨むべき妻サンタの将来を、「自分が死んだら、呉々も宜しく」と母親に嘆願して決闘へと向かう場面…そう、それは遺言としての「贖罪の表明」以外の何物でも無い。

この「カヴァレリア」からは、物語がシチリアの田舎村での「復活祭」の1日が舞台で有る事と、不実を糾弾する事からのキリスト教的思想、またタイトルから判る「騎士道」精神が十二分に窺えるのだが、この「贖罪」こそが果てし無く重要なテーマだと僕は思う。

そしてこの晩「弦」が大変際立ったオーケストラに拠って、マスカーニと云う作曲家はこの曲を書く為に生まれて来たと云っても良い程、如何なる管弦楽曲の中でも最も美しい旋律を持つ「間奏曲」(→https://m.youtube.com/watch?v=BIQ2D6AIys8)が始まると、この「贖罪」の場面を思い描いた罪深い僕の眼からは、止め処無く涙が零れ落ち始めた。

何故なら僕には、この世の物とは思えない程に美しいこの「間奏曲」に本当に良い想い出が有って、この曲を共有した人との想い出は、時が経とうと何が有ろうと消えはしないからだ。

「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、「贖罪」の物語で有る。