「迷宮」に迷い込む、秘かな愉しみ:平野啓一郎「透明な迷宮」。

作家平野啓一郎氏の新作、「透明な迷宮」(新潮社)を読了した。

主人公が日本人で有る事だけが共通項で、年齢も職業も、性別も嗜好も、生活様式も物語の舞台も異なる、宝石箱の様なこの短編集を読んで居ると、何故か静かで不思議な、美しいオムニバス映画を観て居るか、ミュージシャンが丹念に曲と曲順を考えて作った、アルバム・レコードを聴いて居る様な気分に為る。

それは各々の物語から醸し出される、時には田舎に在る「御衣黄」と云う名の木から、時には性交時の男女の肉体から、或いは纏わり付くハワイの空気や、アルコールランプの芯から発せられる、特別な「匂い」を持つ情景と、そして決して届かない本物の手紙、自分の時間感覚が他人のそれと全く異なって仕舞う病気、姉妹を愛して仕舞う男、思い出せない目的、焔でしか興奮できない男、拳銃を手にした中年女等が持つ「齟齬への不安」のリアルな連続性が、ずっと根底に流れ続けて居るからかも知れない。

平野氏が作品のテーマとして来て居る、「身体」や「時間」は本作でも非常に重要な位置を占めて居るが、僕にはその身体的・時間的に増幅された「同じ様で居て、違う」と云う「齟齬への不安」の影に、何故か「愉楽」が見えて仕舞う…と云うか、著者が敢えて垣間見せてくれて居る気がする、と云った方が正確かも知れない。

これは、例えばカフカの「城」やカミュの「シーシュポスの神話」に於ける一つの解釈の様に、城に絶対に到着出来無い理由が「実は自分が着きたくないから」、また転がり落ち続ける岩を永遠に山頂迄運ばねばならない理由が「実は自分が運びたいから」と云った、「意識下の欲望」の所為だろうか?

と云う事は、本作に見える「齟齬への不安」は、僕に取っては「怖い物見たさ」や「M的」願望と置き換えても良いかも知れない。いや「M的」と云うよりは、特に各々の作品で描かれる、極めて特殊なカタストロフィックなシチュエーションに於いては、「自分は実は『それ』を心の底で望んで居るのでは無かろうか…『それ』が例え破滅的、反道徳的、或いは反社会的で有ったとしても」と云う事なのでは無いかと思う。

決して、著者の平野氏がそうだと云って居る訳では無い…「飛び込み型」の性格の僕が、この類い稀為る傑作短編集を数回読み、咀嚼し、反芻し、呑み込み、消化し、それが僕の身体を廻り、細胞の一部に為った時、初めて僕はこの短編集の主人公達が、僕と同様に、自ら入り込んだ迷宮に於ける「秘かな愉しみ」を実は感じて居るのでは無いかと考え、僕の分身は何時の間にか、このオムニバス・エピソードの全てに入り込み、気が付けば脳内でその「主役」を演じ始めて仕舞って居る自分に驚く。

この短編集には、どうしようも無い「誘惑」と「罪悪」が充ち満ちて居て、本作の美しくも儚さに溢れるカヴァーに使用された、ムンクの名作版画「Der Kuss」が「反転」させられて居る事も、追い討ちを掛ける様に、その事を僕に甘く鋭く突き付けて来るのだ。

その誘惑と罪悪には、何時でも「後ろめたさ」と云う蜜の味が付き纏う…が、無意識下の出来事としても、その甘く罪深い迷宮に自ら迷い込んで行くには勇気が要るし、ある種のオプティミズムが無ければ、とてもその残酷な迷宮内で生き延びる事は出来ない。

そして僕が一番好きだった最終作品、「Re:依田氏からの依頼」のラストに於いて、平野文学に必ず刻まれる「光」が見えた事で、その内部に未練を残しながら僕は迷宮から脱出する。

平野啓一郎の新作短編集「透明な迷宮」は、詩・曲・ジャケット全てをアーティストが仕上げた傑作アルバム…間違い無く、僕の今年No.1小説と為った。

平野氏の描く「迷宮」は、何時でも僕を誘惑する…そして僕はこれからも、其処に迷い込む事を秘かに期待しているのだ。